2001年を境に激動の世界(私にとって)に入り込んでしまった今日この頃。1980年代、90年代,そして2000年代の私の旅のあとさきを伝えていきます。 http://tabinoatosaki333.at.webry.info/もご覧下さい。
2011年9月30日金曜日
旅支度41
四八一年、クローヴィスがフランク王国(メロヴィング朝)の初代国王となります。西ローマ帝国崩壊から五年後です。生誕地は現在のベルギーで最古の街トゥルネーです。六世紀には司教座が置かれています。領土はロワール川北部へ広がり、北海からピレネー山脈までの北部ガリアに拡がります。そして五〇八年、王国の首都はパリへ。旧ローマ帝国内でのフランク王国の領土拡張は、キリスト教が王国を統一する上で王国の共通の柱となる重要な要因でした。その後の歴代国王もキリスト教徒としてローマ教会と良好な関係を維持しながら領土拡張を行っています。
八世紀、メロヴィング王朝末期の宰相としていた仕えていたピピン三世(小ピピン)がメロヴィング王朝を廃してカロリング王朝を開きます。七五一年、ローマ教皇に承認された王は、ランゴバルト王国との戦いに勝利しラヴェンナを教皇に献上しています。「ピピンの寄進」と呼ばれるもので、これが「教皇領」の始まりといわれます。王国の領土も拡大し、それに伴って教皇との関係も深まっていきました。続く
要らぬお節介
昨日、関西空港に帰着しました。
到着階の銀行で再両替をしましたが、その時の様子を。
再両替の用紙を書き込む時にもう一人、客がいました。
彼女は銀行のスタッフから何か言われた風でした。両替カウンターの手前で「両替するお金を数えますから」と。
要らぬお節介です。添乗を遣っている人間であれば外国紙幣も見慣れて、使い慣れているはずです。
再両替する通貨を数えられない訳はありません。時間も無く先を急いでいたので、私は断って自分で紙幣を数え、再両替の用紙を記入して、カウンターの窓口に提出しました。その間、5分もかかっていません。簡単に出来る作業。先に両替を済ませた私は、紙幣を数えてもらっていた女性に「順番は守ってください!」と叱られました。
彼女も添乗員でした。
しかし、可笑しな商いです。今回は再両替する客は二人だけでしたが、客が多いときはどうするのでしょう。
わざわざ、外国紙幣を数えてやって窓口に並ばせているのでしょうか?客が多いときは対処できないと思いますが・・・。急いでいる客は堪りません。恐らく、外国であれば、「何故、自分の金を他人に任すのか?」と不思議に思う筈です。あるいは、関西の客には両替も人任せの人が多くて考え出された商いでしょうか。
到着階の銀行で再両替をしましたが、その時の様子を。
再両替の用紙を書き込む時にもう一人、客がいました。
彼女は銀行のスタッフから何か言われた風でした。両替カウンターの手前で「両替するお金を数えますから」と。
要らぬお節介です。添乗を遣っている人間であれば外国紙幣も見慣れて、使い慣れているはずです。
再両替する通貨を数えられない訳はありません。時間も無く先を急いでいたので、私は断って自分で紙幣を数え、再両替の用紙を記入して、カウンターの窓口に提出しました。その間、5分もかかっていません。簡単に出来る作業。先に両替を済ませた私は、紙幣を数えてもらっていた女性に「順番は守ってください!」と叱られました。
彼女も添乗員でした。
しかし、可笑しな商いです。今回は再両替する客は二人だけでしたが、客が多いときはどうするのでしょう。
わざわざ、外国紙幣を数えてやって窓口に並ばせているのでしょうか?客が多いときは対処できないと思いますが・・・。急いでいる客は堪りません。恐らく、外国であれば、「何故、自分の金を他人に任すのか?」と不思議に思う筈です。あるいは、関西の客には両替も人任せの人が多くて考え出された商いでしょうか。
2011年9月28日水曜日
旅支度40
四世紀中頃、フランク族がライン川を越えて現在のベルギー、ルクセンブルグ辺りまでやって来ます。そしてそこを拠点にして領土を拡張していきますが、当時のローマ帝国にはゲルマン民族諸派が大量に侵入を始めており、帝国は防衛の必要性からフランク族に土地を提供しています。帝国の傭兵のように働き、早くからローマ文化と接することで他のゲルマン諸派とは違う歴史を歩むことになります。
五世紀末期、フランク王国の最初の王朝、メロヴィング朝を開いたクローヴィスは異端のアリウス派からアタナシウス派キリスト教に改宗します。ローマとの同化に努めます。
四世紀にローマ帝国内で公認、そして国教とされたキリスト教は、すでにゲルマン民族にも布教が行われていましたが、ゲルマン民族のキリスト教は三位一体論を認めないキリスト単性論(アリウス派)が主流でローマ帝国内のものとは異なっていました。クローヴィスの改宗はローマ市民との関係を良好なものにしました。続く
五世紀末期、フランク王国の最初の王朝、メロヴィング朝を開いたクローヴィスは異端のアリウス派からアタナシウス派キリスト教に改宗します。ローマとの同化に努めます。
四世紀にローマ帝国内で公認、そして国教とされたキリスト教は、すでにゲルマン民族にも布教が行われていましたが、ゲルマン民族のキリスト教は三位一体論を認めないキリスト単性論(アリウス派)が主流でローマ帝国内のものとは異なっていました。クローヴィスの改宗はローマ市民との関係を良好なものにしました。続く
2011年9月26日月曜日
トロギール
本日はプリトビチェからシベニックからトロギール、スプリットと周って来ました。トロギールのガイドと再来年のEU加盟の話しになりました。「加盟に反対!」六月に加盟が決定したので、どうしようもない事ですが、EU既加盟国に食い物にされる事を心配していました。エリカのガイドの、政治家とビジネスマンの話しをすると納得、同意しました。クロアチアの人々の生活が豊かにはなっているようには見えません。
旅支度39
フランク王国
中世の始まりがいつ頃か? いろいろ解釈がありますが八世紀中頃にカール大帝と言う人物が登場します。ゲルマン民族の一派であるフランク族の長です。古代ローマ帝国へのゲルマン民族の侵入がローマ帝国の滅亡を促し一時の混乱を招きましたが、ローマ帝国=キリスト教社会を西ローマ帝国(キリスト教社会)の再興というかたちで、現在の西欧の基にもなる国に整えたカール大帝のフランク王国が中世の始まりだと思います。
ゲルマン民族の出自はウラル山脈の西部、カスピ海の北部辺りに居住していたと言われますが、アジアのフン族(匈奴)の西進により押し出されるように欧州に移動して紀元前にはライン河東部に辿りついています。ローマ帝国は領土を拡張している時代です。ライン川とドナウ河が防衛線になっていました。続く
中世の始まりがいつ頃か? いろいろ解釈がありますが八世紀中頃にカール大帝と言う人物が登場します。ゲルマン民族の一派であるフランク族の長です。古代ローマ帝国へのゲルマン民族の侵入がローマ帝国の滅亡を促し一時の混乱を招きましたが、ローマ帝国=キリスト教社会を西ローマ帝国(キリスト教社会)の再興というかたちで、現在の西欧の基にもなる国に整えたカール大帝のフランク王国が中世の始まりだと思います。
ゲルマン民族の出自はウラル山脈の西部、カスピ海の北部辺りに居住していたと言われますが、アジアのフン族(匈奴)の西進により押し出されるように欧州に移動して紀元前にはライン河東部に辿りついています。ローマ帝国は領土を拡張している時代です。ライン川とドナウ河が防衛線になっていました。続く
2011年9月25日日曜日
旅支度38
一三世紀頃には新しい働き手として出現していた職人や商人の住む街は市壁を備え新たな市場を形成していました。そのような街にドミニコ会やフランシスコ会の修道士たちが現れます。閉鎖的な修道生活の場所から開放的な修道生活が行われる場所として修道士の舞台は街に移ります。キリストの教えも修道士や王侯・貴族だけでなく一般庶民にも説かれるようになります。キリストの実践した大衆救済が始まります。教会建築も荒れ野のロマネスク様式から街のゴシック様式へ。富と権力を集めた修道院は次第にその勢力を弱めていきましたが、大衆の中へ飛び込んだ修道院教会は職人や商人などの支持を得ていきます。大衆の為のキリスト教時代を迎えつつありました。王侯・貴族の寄進による教会だけではなく、職人や商人など大衆による寄進の教会が建てられていきます。そのような教会がゴシック様式建築として西欧中に拡がります。高く聳える尖塔、開口部の尖頭アーチ、ステンドグラスの窓、高い天井等が特徴の教会建築は、まさに「神の住まう」空間として新しい時代のキリスト社会の扉を開きました。
2011年9月24日土曜日
リエカ
リエカの街は古代ローマ時代に造られた街の遺跡が一部、残っています。イタリア、ドイツ軍が侵攻、占領した大戦末期には、連合軍の空爆を浴びて旧い建物は破壊されました。大戦後に建てられた物が多い街です。そんなガイドの説明を聞きながら、面白かった話しを一つ。大聖堂の後ろの高台に裁判所として使われている宮殿の建物があります。同じ建物の一部は牢獄として使われています。
「最近、収監された罪人は政治家とビジネスマン」とか。
「最近、収監された罪人は政治家とビジネスマン」とか。
リエカII
「最近、収監された罪人は政治家とビジネスマン」のコメントは、エリカのガイドのジョークでしたが、
その話を聞いた時、三月にザグレブで起きた反政府デモの報道を思い出していました。
ジョークとはいえシリアスなジョークに聞こえました。おそらく、ガイドだけでなくクロアチアの人びとの一般的な見方のように感じたジュークでした。2013年にEU加盟が決まったクロアチア。加盟が吉とでる凶と出るか。今回は、イスタンブール経由でバチカンに入りました。イスタンブールで半日観光を行った際、景気の話に成りました。悪くない景気。クロアチアと同時期にEU加盟申請を行っていますが、加盟は先延ばしになったようです。他のイスラムの国とは違う欧州寄りの一面を持っています。アジアと欧州の架け橋になれるトルコですから、今のままの状況が良いのでは?と言うのがガイドと話した結論になりました。全員が右向け右で何処へ向かっているか判らない状況に陥るより、自分の居場所が判っていれば違った方向を向いていても良い気がします。おかしいと、デモを起こすクロアチアの一般の人達の感覚は真面だと感じます。
その話を聞いた時、三月にザグレブで起きた反政府デモの報道を思い出していました。
ジョークとはいえシリアスなジョークに聞こえました。おそらく、ガイドだけでなくクロアチアの人びとの一般的な見方のように感じたジュークでした。2013年にEU加盟が決まったクロアチア。加盟が吉とでる凶と出るか。今回は、イスタンブール経由でバチカンに入りました。イスタンブールで半日観光を行った際、景気の話に成りました。悪くない景気。クロアチアと同時期にEU加盟申請を行っていますが、加盟は先延ばしになったようです。他のイスラムの国とは違う欧州寄りの一面を持っています。アジアと欧州の架け橋になれるトルコですから、今のままの状況が良いのでは?と言うのがガイドと話した結論になりました。全員が右向け右で何処へ向かっているか判らない状況に陥るより、自分の居場所が判っていれば違った方向を向いていても良い気がします。おかしいと、デモを起こすクロアチアの一般の人達の感覚は真面だと感じます。
旅支度37
人里離れた場所に建てられたクリュニー会、シトー会の修道院教会は、一〇世紀から一二世紀にかけて多用されたロマネスクと言われる建築様式で建てられました。厚い壁、開口部の半円アーチと石造の穹窿天井が特徴です。
ロマネスク様式の修道院教会は、一六世紀の宗教改革、一八世紀のナポレオン戦争を通して多くが消失しますが、現在でも西欧でロマネスク様式の教会を目にする事ができます。建物はフランス、イタリアそしてスペインに拡がります。クリュニー会、シトー会の始まったフランスでは、ヴェズレーのサント・マリー・マドレーヌ。クレルモン・フェランのノートル・ダム・デュポー。フォントネーのフォントネー修道院(シトー会)。ル・トロネのル・トロネ修道院(シトー会)。ヌヴェールのサン・エティエンヌ教会堂。ル・ピュイのノートル・ダム大聖堂、サン・ミシェル・デギーユ礼拝堂。トゥールーズのサン・セルナン教会堂等があります。続く
ロマネスク様式の修道院教会は、一六世紀の宗教改革、一八世紀のナポレオン戦争を通して多くが消失しますが、現在でも西欧でロマネスク様式の教会を目にする事ができます。建物はフランス、イタリアそしてスペインに拡がります。クリュニー会、シトー会の始まったフランスでは、ヴェズレーのサント・マリー・マドレーヌ。クレルモン・フェランのノートル・ダム・デュポー。フォントネーのフォントネー修道院(シトー会)。ル・トロネのル・トロネ修道院(シトー会)。ヌヴェールのサン・エティエンヌ教会堂。ル・ピュイのノートル・ダム大聖堂、サン・ミシェル・デギーユ礼拝堂。トゥールーズのサン・セルナン教会堂等があります。続く
2011年9月19日月曜日
災害
先ほど、インド北東部でM6.9地震が発生したとの記事がありました。
国内では3月の地震、原発事故で東日本が被害を受けて、先月から西日本でも台風被害を受けて多くの被災された方がでています。国内だけではない自然災害の報道は、精神的に堪えます。外はいつもと変わらない景色ですが、気が滅入ってしまいます。(こころの)準備をしろという事でしょうか。金融危機も報じられて、自然災害だけではなく人災も起こりそうな雰囲気です。まるで、自然災害と連動しているような感じです。人間も自然の一部としてみれば関係の無い事ではないでしょうが・・・。昨日の記事に、ニューヨークのウオールストリート(ブル像の前)で数百人の若者が「我々の未来を売買するな」のプラカードを掲げてデモ発生、のニュースがありました。先日はエルサレムで生活苦を訴える大規模のデモのニュースもありました。90年代に入って金融に関わる経済危機が顕著になったよう思います。企業も一円の円高で億単位の損失を出し、企業の経営状態が悪くなれば従業員がリストラ。今年の2月、3月にはクロアチアのザグレブで現政権の経済政策に不満な人々がデモを行っていました。
異教徒同士の戦いより、グローバル化した経済にどっぷり浸かった国内の中で争いが始まるかもしれません。
国内では3月の地震、原発事故で東日本が被害を受けて、先月から西日本でも台風被害を受けて多くの被災された方がでています。国内だけではない自然災害の報道は、精神的に堪えます。外はいつもと変わらない景色ですが、気が滅入ってしまいます。(こころの)準備をしろという事でしょうか。金融危機も報じられて、自然災害だけではなく人災も起こりそうな雰囲気です。まるで、自然災害と連動しているような感じです。人間も自然の一部としてみれば関係の無い事ではないでしょうが・・・。昨日の記事に、ニューヨークのウオールストリート(ブル像の前)で数百人の若者が「我々の未来を売買するな」のプラカードを掲げてデモ発生、のニュースがありました。先日はエルサレムで生活苦を訴える大規模のデモのニュースもありました。90年代に入って金融に関わる経済危機が顕著になったよう思います。企業も一円の円高で億単位の損失を出し、企業の経営状態が悪くなれば従業員がリストラ。今年の2月、3月にはクロアチアのザグレブで現政権の経済政策に不満な人々がデモを行っていました。
異教徒同士の戦いより、グローバル化した経済にどっぷり浸かった国内の中で争いが始まるかもしれません。
旅支度36
十世紀初頭、ベネディクト会の精神を引継ぐクリュニー会がアキテーヌ公ギョーム一世と言う人物によって創立されました。世俗の献身的なキリスト教徒です。創設されて直ぐに教皇の認可を受けています。クリュニー会は聖俗両方の支持を得て西欧中に修道院、修道士を増やしていきました。傘下の修道院の数は最盛期には一五〇〇ほどに膨れ上がり聖俗社会で大きな影響を及ぼします。しかし肥大化した修道会は、次第に本来の「ベネディクト会則」に沿った修道生活とはかけ離れていきます。祈りと瞑想が重視され労働が疎かになっていきます。世俗からの寄進により莫大な富が集中するようになると、祈る場所は豪華になり、荘厳な典礼が行われるようになりました。世俗に対して目に見えるかたちでキリスト教の精神性を伝える必要があったのかもしれません。祈りと瞑想の質実・簡素な精神的修道を重視していたはずですが・・・。ベネディクト会則の修道生活を求める修道士の中には別の道を求める者も出てきます。ベネディクトゥスの精神を外れたクリュニー会は一二世紀末頃から次第に衰退していくことになります。続く
2011年9月17日土曜日
大量生産 大量消費
面白い番組が有りました。日本各地の丼飯を紹介する内容で、レポーターが絶賛する手ごろな値段で食べられる丼飯の紹介です。B級グルメという言葉が生まれ、A級には受難の時代になっています。食に限らず、社会全体が値段の安い、手ごろな値段の商品を生産、消費者を呼び込もうと一所懸命です。しかし、何かおかしい。安ければ大量に捌かないと企業としては成り立っていかない現在のビシネス。ユニクロもZARAもH&Mも、世界規模でビシネスを遣っている企業はアジアの発展途上国で商品を生産しています。中国と同様に労働者の人件費はいずれ上がります。アジアの次はアフリカでしょうか。今の遣り方をあと何年続けられるでしょうか。原料(材料)がいつまで有るのか。今夜の丼飯も手ごろな値段では大量に捌かないと利益は上がらない筈です。天然ものにも限度が有る筈です。鹿児島県は養殖鰻、黒豚の生産で日本一とか。いずれは手ごろな値段の商品は人工物(人間が科学的に手を加えた)になってしまうのでは...。
旅支度35
ベネディクトゥスが活躍した約一世紀前、西ローマ帝国は滅びました。ローマ帝国は東西に分裂しそれぞれの道を歩むことになりましたが、西ローマ帝国はゲルマン民族の侵入などが原因で国の体裁を保てなくなります。ローマ帝国=キリスト教社会であった領土への異教の民族侵入は異文化の流入でもありました。ローマ帝国という後ろ盾の無くなったキリスト教はゲルマン民族であるフランク族を後ろ盾に選びます。フランク族もキリスト教へ改宗することで旧ローマ帝国領土内での権力固めを図ります。初期キリスト教時代、キリスト教徒は歴代の皇帝から迫害され苦難の時代を送りますが、迫害されればされるほど彼らの結束は固められ、次第にローマ人の中にも信者を増やしていきました。そしてコンスタンティヌス大帝によるキリスト教公認、その後の国教へとキリスト教が帝国内に浸透していきます。しかしそれはキリスト教の世俗化も意味しました。キリスト自身、世俗権力を認めていたので、その権力との共存、関わりの中でキリスト教も存在します。あくまで世俗権力はキリスト教に従属するものと考えられていましたが・・・。しかし両者の力関係はそのバランスを崩した時、容赦ない敵対関係を生みました。聖と俗という性質の違う権力が互いの存在を受け入れなくなり権力の潰し合いが始まります。その萌芽はキリスト教が世俗権力と関わった時に始まったと思います。族長がキリスト教に改宗すると部族全員がキリスト教徒になる社会は、迫害の中でキリストへ忠誠を誓い続けた社会とは明らかに違います。
フランク族と云う新しい保護者が現れ、旧西ローマ帝国=キリスト社会の再興がなった時、ひとときの平和が訪れます。しかし、更なる異民族の侵入、フランク王国の分割などが再び欧州を混沌とした時代に後戻りさせます。そのような混沌の時代に生きたのがキリストの教えを求めたヴェネディクトゥスであり、聖なる空間を求めた多くの修道士たちです。続く
2011年9月15日木曜日
旅支度34
モンテ・カッシーノはローマとナポリの中間辺りに位置します。山頂には約千五百年の歴史を歩んだベネディクト会修道院総本山の建物がまるで天に向かって建っています。その様子は高速道路からも見える大きな建造物です。未だに宗派を問わず聖人として慕われるベネディクトゥスのモンテ・カッシーノの修道院はこれまで何度か破壊されています。その一つが一九四四年一月、ドイツ軍と連合軍の激戦です。硫黄島、ノルマンジーの戦い同様多くの戦死者を出していますが、その際に、合衆国の日系兵士(ハワイ出身)で編成された第四四二連隊(第一〇〇歩兵大隊)は最前線で戦い続け多くの戦死者を出しました。歴史から見落とされがちな激戦が行われた場所です。修道院はドイツ軍の重要拠点と考えた連合軍の爆撃によって全壊しました。現在、目にする修道院は戦後に再建されました。
五四七年、聖ベネディクトゥスはここで亡くなりこの修道院に葬られています。
その後、ベネディクト会の修道精神は後の修道会へと引き継がれます。 クリュニー会、シトー会、そしてフランシスコ会、ドミニコ会へ。続く
2011年9月13日火曜日
旅支度33
六世紀、西欧で最初の組織的な修道院が現われました。五二九年に創建されたイタリアのモンテ・カッシーノの修道院です。ヌルシアのベネディクトゥスが始めた修道士たちの修道場所です。彼自身は古代ローマ貴族の家系に生まれましたがキリストと共に生きる生活を選びます。彼以前にも隠修修道士として個人で修道生活する人たちもいましたが、ベネディクトゥスが初めて修道士の共同生活する共住修道院を設立します。戒律を定め「祈り、かつ働け」がベネディクト会の修道生活の基本となります。神から与えられた罰であった「労働」が修道院では重要な修道生活の一部を成しました。修道士にとって人類の背負わされた「労働」は、原罪を一身に背負って磔になったキリストと共に在る事を喜ぶ術だったのかもしれません。修道士には清貧、貞節、従順の規律のもとに終生キリストへの信仰に生きる事も求められました。しかし、修道院の「労働」がキリストへの信仰に基づき行われ、修道生活を補完する自給自足の範囲で収まっている間は問題はありませんでしたが、次第に世俗社会との関わりが生ずるとその特質が変容していきました。
古代から忌み嫌われていた「労働」は、労働する人の受け取り方次第では辛いものであり感謝へ通ずる行為にもなります。キリストと共にある喜びを共有している修道士たちにとって「労働」は喜びだったと思います。
その後、修道院内で行われた「労働」の成果は世俗に拡がり彼らの生活にも影響を与えます。何故なら中世、修道院(教会)は生活の情報・技術の発信源となっていたからです。続く
2011年9月12日月曜日
旅支度32
人生を謳歌するイタリア人の性格を表現する時に次のような言い方をする事があります。イタリア人の人生は「マンジャーレ、カンターレ、アモーレ」と。「食べて、歌って、恋して」とシンプルな事です。イタリア人にとって人生で総て大切なものです。一度きりの人生、食べて、歌って、恋して愉しもうという事でしょうか。特に南イタリアを旅行するとその生活の雰囲気を愉しめます。
愉しみより遥かに多い辛い人生(労働)を紛らわすかのようなイタリア人の人生観が有っても不思議ではありません。意識して愉しんでいるようです。まるで中世時代の生活の裏返しのように人生を意識的に愉しんでいるように見えます。
労働よりマンジャーレを生きがいにする国、イタリアでは食べる事にこだわった歴史が、旅行者にも評判の食文化を育んだのだと思います。西欧の他の国を旅行しても、料理が美味しい(評判の良い)と言われるのはカトリックの国々です。一方、日本人旅行者に不評なのがプロテスタントの国々です。面白いです。中世末期に現れたプロテスタントの食と労働への関わりかたはカトリックとは違います。また、中世初期には既に世俗の労働観とは違う世界がありました。みずから進んで聖書に従う生活を選んだ人びとの世界です。キリスト教の修道院です。 続き
2011年9月11日日曜日
旅支度31
旧約聖書の創世記三章に「楽園追放」が描かれています。神によって創られたアダムと連れ添いとしてアダムの脇腹から創られたイブは、善悪の木の実を口にして神との約束を破ります。その為に楽園(エデンの園)を追われます。神との約束さえ守れば、神と共に住まい、永遠の命を持って楽園で何不自由なく過ごせたようですが約束を守れませんでした。そして追放の際に神は二人に罰を与えます。イブには産の苦しみが与えられ、アダムには一生いばらとあざみが生えた荒地を耕し、野の草を食べる一生が与えられました。そこから人類(旧約聖書を拠り所とする)の苦難の物語がはじまります。
人類の祖であるアダムとイブの子供達は子々孫々、神との約束を守れなかったという原罪を背負っていくことになります。女には(お産の)苦しみ、男には耕作という労働が罪として背負わされました。
中世の「労働」と言えば主なものは農業です。文字の読めない農民にとって聖職者に聞かされる「楽園追放」の話は現実そのものだったと思います。生きる為の糧となる作物を育てる労働は必要不可欠にも関わらず、教会では神が与えた罰となってたのですから。恐らく、日々どのように生きていくかと言う状況の農民にとって、その労働環境はまさに神から与えられた罰だと考えても不思議ではなかったと思います。続く
2011年9月10日土曜日
旅支度30
名言を吐いたパウロは、キリストの教えをひろめるために孤軍奮闘した聖人の一人です。中世後期、ヨブ記やヨハネ黙示録と同様に新約聖書のパウロの書簡はプロテスタントに影響を与えています。その聖パウロは多くのカトリック教会で聖ペテロと共に描かれます。イタリア、ローマのバチカン市国のサン・ピエトロ聖堂の建物正面の外階段上り口にも、ペテロは鍵を持ち、パウロは剣を持った像で立っています。
西欧の国々を巡るとどこでも教会を目にします。特にカトリックの国(イタリア、スペイン、フランス)を訪れると教会の建物は今でも旧市街と呼ばれる街の中心にあります。建物の大きさ、内外の装飾の素晴らしさに、しばし「・・・」。最初の頃はそうでした。初めて観た時は驚きの連続でした。誰もが同じ印象を持つと思います。信仰を持たない人でも芸術作品として。建物の大きさ、歴史、内外の装飾などに驚かされます。そのような教会建築はゴシック様式と言われる時代の教会に多く見られます。鐘楼の塔は高くなり、ファサードと呼ばれる教会入り口の装飾、内部の彫刻、壁画に聖人や聖書の世界が描かれています。ゴシック時代の教会は、多くの人が文字の読めなかった中世時代、聖職者の読み聞かせる聖書の世界をより一層視覚的に人々に聖書の世界を伝える役割を果たしました。続く
2011年9月8日木曜日
旅支度29
労働
大正生まれの父がよく口にしていました。「働かざる者食うべからず」
キリスト教徒でもない父親は、そう言いながら家族の為に働きました。恐らく、昔は誰でも働くことを厭わなかったのだと思います。戦後の復興期に何とか生きて行くために働き、その後も、より良い生活を求めて働き続けた両親にとって当たり前の事が当たり前に出来ていました。額に汗して労働することが当たり前の時代に生まれ育った両親は、働きたくても働けない時代と比べれば幸せだったと思います。
父のよく口にしていた「働かざる者食うべからず」は、約2千年前のキリスト教徒パウロが「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」(テサロニケ人への第二の手紙3:10-口語訳聖書一九五四年)と述べています。洋の東西を問わず「労働」は「生きていく」為に大事なことだったのです。キリスト教徒にとっては信仰の上でも。
父親は「働く」ということは、はたはたを楽させることだ、とも言いました。人間の基本的な生活行為である「労働」、「働く」場所はますます奪われていこうとしています。
時代と共に経済を支える職業の形態が変化するのは致し方ない事かもしれませんが、常に変化を求め経済に活力を注ぎ込みながら遣ってきた合衆国ではどのような職業観があるのか?
新大陸に渡った初期の移住者は清教徒です。旧教の束縛から逃れて新世界で新教を基本にした街を作ろうという希望に燃えていた人々です。信教の自由を求めて新大陸(合衆国)に渡った人々の労働観を辿ってみたいと思います。脇道に逸れることも有るかと思いますが、どうぞお付き合いを下さい。続く
2011年9月5日月曜日
旅支度28
二〇世紀に入って、金融理論、金融経済、金融工学などと、金を融通するための考え方、方法などが学問されるようになりました。「実体経済」が生み出してきた商品とは違う商品が八〇年代から幅を利かせています。それまで、こつこつと築き挙げた実体経済を、一瞬のうちに呑み込む数字が闊歩しています。実体生活の中にいる労働者は災難です。九〇年代に入って合衆国の専売特許であった「リストラ」が日本でも始まります。企業利益が優先され労働者が簡単に首を切られるようになりました。
そのような新しい経済を考え出した合衆国にも「労働」は神と関わる神聖な行いであるという考え方がありました。神を称え、神から認められる手段として「労働」は尊ばれましたが、次第にその特質を変えてしまったようです。今に始まった事では有りませんが、簡単にリストラして神との関係を断っている合衆国の企業。企業の業績が悪くなれば当たり前のように首切りを始めるようになった日本でも「労働」は、働くということは理屈抜きで尊ばれていた行為だったと思います。続く
ワンプライスオークション
面白いWEBオークションを見付け、試してみました。
オークション出品の品数が多くて、同じ商品が頻繁にオークションに出ています。これだけの在庫を保管するのも大変な事です。
0円から始まるオークション。オークションに参加するためには一枚、77円のコインを購入しなければなりません。0円からスタートして、1円、5円、10円という切りで値段が付けられていきます。入札ボタンをクリックするごとにコインが一枚必要になります。入札方法は手動と自動で値段を上げていきます。手動、自動は自由に選択できます。
今回は最初に2回の入札を自動に設定すると、偶然にも相手も2回の自動入札で値段を上げてきました。そこで、手動に切り替えると入札相手が手動用(?)の人物に変わり、以降、その相手と値段を競う事になりました。自動設定の時に相手になった人物はオークションに参加しなくなりました。
締め切り時間、ぎりぎりになって入札者が現れます。私が入札に参加すると、最初の入札者はいなくなり、ユッティという入札者と二人で入札を競う事になりました。また、別の商品のオークションで入札終了5秒前に入札のボタンをクリックすると即座に「o」という入札相手が現われて値段を競いました。両方とも落札できず。
Apple製品の入札は殆どの商品が、2人きりの入札競争です。
入札のタイミングも難しい。WEBサイトの注意書きに「ゼロ秒直前の入札は通信状況により受け付けられないこともございます。5秒以上の入札を推奨します。」
「落札者の声」には、家電・コンピューターの落札者の声がないのでIpadの落札は難しそうです。「落札者の声」のニックネームとAppleオークションに参加している入札者のニックネームを比べると、後者は第三者がが考えたような名前です。
オークション出品の品数が多くて、同じ商品が頻繁にオークションに出ています。これだけの在庫を保管するのも大変な事です。
0円から始まるオークション。オークションに参加するためには一枚、77円のコインを購入しなければなりません。0円からスタートして、1円、5円、10円という切りで値段が付けられていきます。入札ボタンをクリックするごとにコインが一枚必要になります。入札方法は手動と自動で値段を上げていきます。手動、自動は自由に選択できます。
今回は最初に2回の入札を自動に設定すると、偶然にも相手も2回の自動入札で値段を上げてきました。そこで、手動に切り替えると入札相手が手動用(?)の人物に変わり、以降、その相手と値段を競う事になりました。自動設定の時に相手になった人物はオークションに参加しなくなりました。
締め切り時間、ぎりぎりになって入札者が現れます。私が入札に参加すると、最初の入札者はいなくなり、ユッティという入札者と二人で入札を競う事になりました。また、別の商品のオークションで入札終了5秒前に入札のボタンをクリックすると即座に「o」という入札相手が現われて値段を競いました。両方とも落札できず。
Apple製品の入札は殆どの商品が、2人きりの入札競争です。
入札のタイミングも難しい。WEBサイトの注意書きに「ゼロ秒直前の入札は通信状況により受け付けられないこともございます。5秒以上の入札を推奨します。」
「落札者の声」には、家電・コンピューターの落札者の声がないのでIpadの落札は難しそうです。「落札者の声」のニックネームとAppleオークションに参加している入札者のニックネームを比べると、後者は第三者がが考えたような名前です。
2011年9月4日日曜日
旅支度27
合衆国型経済?
二〇〇八年、世界の経済状況は一変しました。世界金融危機の始まりです。その年の前半と後半では生活状況ががらりと変わりました。金融商品を扱っていた金融機関が潰れます。合衆国から始まった金融危機が世界を駆け巡ります。原因は「サブプライムローン」問題と言われています。二〇〇七年頃からメディアに登場した言葉です。数字を弄って、転がして、気の遠くなるような桁の数字を作り出し、仕舞には実体経済とかけ離れてしまったと言うことでしょうか。
「サブプライムローン」の発信源が合衆国で、経済大国の金融問題が瞬く間に世界に拡がり世界的な金融危機に発展しました。これも経済の「グローバリゼーション」の賜物です。
世界に影響を及ぼすような金融問題はその一〇年前、二〇年前にも起きています。
一九九七年にはアジア通貨危機が起こり、タイを中心に東南アジア、東アジアに波及、世界の景気後退が起きました。市場主義を導入していたロシアも影響を受けます。この金融危機で韓国は破産状態となり国際通貨基金の支援を受けることになりました。ジョージ・ソロスやヘッジファンドと言う名前が頻繁にメディアに登場します。
その十年前、一九八七年一〇月には、ブラックマンデーと名づけられた金融危機が起きています。ニューヨークの株価暴落に伴う世界同時株安です。景気後退。
一九八〇年代から十年ごとに起きた金融危機。もしかすると数字の寿命は十年ぐらいなのでしょうか。経済規模が大きくなり、景気の波も正比例して大きくなれば僅かな変化で暴走する波動を生み出し、実体経済に押し寄せ経済破綻してしまう。実体経済(生活)とは違う規模の(金融)経済が意図的に作られて景気が左右され始めているようです。続く
2011年9月3日土曜日
旅支度26
西欧から始まったEU拡大は二〇〇〇年代に入ると東欧諸国へも加盟国を増やし経済面でも東西の垣根を取り除いていきました。八〇年代、内向きだった欧州が急速に外へ外へと経済圏を拡大させています。
八五年頃、西欧においてたびたび日本の工業製品の品質、素晴らしさを褒めてもらい、ソニーやホンダ、スズキなどの日本企業名を連呼して貰いました。旅行がブームになる前から日本の企業が海外に進出し営業努力した結果だと思います。日本からの旅行者が挙げた名前はルイ・ヴィトンやエルメス、シャネルといった服飾、皮革製品、装飾品などを扱う企業(店舗)でした。王族や貴族などを顧客とした企業にとって販売促進などという企業努力は必要ありませんでした。そして、貴族御用達の店に勝手に世界中から観光客が遣って来ていたのですから。
そのように内向きで遣ってきた欧州の企業が、九〇年代に入ると目に見えて合衆国型の経済システムを取り入れたビジネスを展開します。ファミリー企業が企業合併や買収を繰り返し組織を大きくすることに努めます。ルイ・ヴィトンは八十年代後半にシャンパン製造業者のモエ・ヘネシーと合併し、その後もグッチやフェンディ、スペインブランドのロエベなどを傘下に収めます。市場を大きくすることで生き残りを図っています。
アジアでは、社会主義を標榜する中国が経済的には市場主義を取り入れ急速な経済成長を続けています。
旧東欧の盟主であったロシアは共産主義を放棄して市場主義に熱心です。旧共産党員が市場主義の成果を享受しています。そして、総ての国が市場主義に右倣えで同じ道を突き進んでいます。続く
2011年9月2日金曜日
ビジネス
今回、ソウルの移動にタクシーを利用する事が多かったのですが、そのタクシーの運転手さんとの話です。
因みに、乗り降り自由なソウルシティーツアーバスを利用して市内を回ろうとしましたが、一時間当たりの本数が少ないので使い勝手が悪く諦めました。30分に一本のバスを捉まえられなければならないので多くの観光場所をまわれません。
韓国も日本同様、労働者の人件費が上がり他国で商品の製造を行う業種が多いとの事。特に近隣の中国に進出して事業を行った中小企業は志半ばで撤退している企業が多く、相手が製造のNOW HOWを手に入れてしまったら用無しにされてしまった企業が多くて、資本の大企業でないとなかなか事業継続は難しいことの事。教訓となって、IT関連の企業は中国には進出しない。80年代の日本の中小企業と同じ道を歩んできたようです。合弁会社という形態で事業が行われ、当時の中国は外貨の持ち出しを禁止していました。日本人観光客は、兌換券という(外国人旅行者専用の)紙幣に両替して友諠商店で買い物をしました。街中の店では中国紙幣(人民元)しか使えませんでしたので、不便な紙幣だったことを憶えています。
いろいろな規制の中で中小企業が事業を行うのは易しいことではなかったと思います。韓国の中小企業も同様でした。しかし、そんな中国も経済的に豊かになり、韓国への旅行者も増えています。2年ほど前から始まった工事があります。国際空港のある仁川からソウルまで運河を造る工事が進行中との事。飛行機ではなく船を使って遣って来る中国人旅行者の為に行われている工事のようです。仁川はソウルから約70kmほどあります。一度、現場を見たいものです。
韓国
最初に韓国(ソウル)に行ったのがソウルオリンピックの前年ですから、86年か87年頃です。今回のソウルと違い当時は日本人に対して構えた感じの人達が多かったように記憶しています。日本語を理解できる年輩の韓国人がたくさんいるから決して批判するような話はしないようにと釘を刺されました。日韓併合という歴史の流れの中で、日本で生活する事になった朝鮮半島の人々は、日本で一生懸命に生活して財を成して一家を構えました。そのような人々が故郷に錦を飾れることが出来るようになっても、ソウルでは「キッポ」と呼ばれて辛い思いをしているということをガイドが話してくれました。しかし、そのような当時の雰囲気を今回は全く感じませんでした。日本同様、世代が変わっています。タクシーの運転手、ホテルのフロントスタッフそしてレストランのスタッフの対応で日本語を喋る若い人達がたくさんいます。政治ではギクシャクしている事があっても、これも韓国の一面です。政治が信用されなくなっている現代、個人の繋がりが世界を変えていく可能性が拡がっています。
ソウル旅行
先月29日から2泊3日の韓国旅行を遣ってきました。仕事柄、両親の死に目、葬儀にも居合わせる事が出来ず姉妹に任せっきりで過ぎたこの二〇年余り。そんな姉妹(夫婦)へのせめてものお礼で敢行したソウル旅行です。しかし、個人旅行とは言え知らず知らずのうちに仕事モードに入っていた3日間でした。昨日、帰宅して久しぶりにぐっすり休みました。そんなソウルも6年ぶりで、97年(?)にアジアの金融(通貨)危機で破綻した韓国はずいぶん変わっていました。直後は、西欧(海外)への韓国人旅行者がぱったりと居なくなり、統制の取れた韓国事情に感心しました。そこから立ち直り、現在の韓国です。韓流ブームにのって日本からの女性観光客を明洞でたくさん目にしました。姉妹もその一人ですが・・・。明洞の活気は韓国の一面を語っていると思います。元気です。
登録:
投稿 (Atom)