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2011年9月28日水曜日

旅支度40

  四世紀中頃、フランク族がライン川を越えて現在のベルギー、ルクセンブルグ辺りまでやって来ます。そしてそこを拠点にして領土を拡張していきますが、当時のローマ帝国にはゲルマン民族諸派が大量に侵入を始めており、帝国は防衛の必要性からフランク族に土地を提供しています。帝国の傭兵のように働き、早くからローマ文化と接することで他のゲルマン諸派とは違う歴史を歩むことになります。
 五世紀末期、フランク王国の最初の王朝、メロヴィング朝を開いたクローヴィスは異端のアリウス派からアタナシウス派キリスト教に改宗します。ローマとの同化に努めます。
 四世紀にローマ帝国内で公認、そして国教とされたキリスト教は、すでにゲルマン民族にも布教が行われていましたが、ゲルマン民族のキリスト教は三位一体論を認めないキリスト単性論(アリウス派)が主流でローマ帝国内のものとは異なっていました。クローヴィスの改宗はローマ市民との関係を良好なものにしました。続く

2011年9月26日月曜日

旅支度39

 フランク王国  

 中世の始まりがいつ頃か? いろいろ解釈がありますが八世紀中頃にカール大帝と言う人物が登場します。ゲルマン民族の一派であるフランク族の長です。古代ローマ帝国へのゲルマン民族の侵入がローマ帝国の滅亡を促し一時の混乱を招きましたが、ローマ帝国=キリスト教社会を西ローマ帝国(キリスト教社会)の再興というかたちで、現在の西欧の基にもなる国に整えたカール大帝のフランク王国が中世の始まりだと思います。
 ゲルマン民族の出自はウラル山脈の西部、カスピ海の北部辺りに居住していたと言われますが、アジアのフン族(匈奴)の西進により押し出されるように欧州に移動して紀元前にはライン河東部に辿りついています。ローマ帝国は領土を拡張している時代です。ライン川とドナウ河が防衛線になっていました。続く

2011年9月25日日曜日

旅支度38

一三世紀頃には新しい働き手として出現していた職人や商人の住む街は市壁を備え新たな市場を形成していました。そのような街にドミニコ会やフランシスコ会の修道士たちが現れます。閉鎖的な修道生活の場所から開放的な修道生活が行われる場所として修道士の舞台は街に移ります。キリストの教えも修道士や王侯・貴族だけでなく一般庶民にも説かれるようになります。キリストの実践した大衆救済が始まります。教会建築も荒れ野のロマネスク様式から街のゴシック様式へ。富と権力を集めた修道院は次第にその勢力を弱めていきましたが、大衆の中へ飛び込んだ修道院教会は職人や商人などの支持を得ていきます。大衆の為のキリスト教時代を迎えつつありました。王侯・貴族の寄進による教会だけではなく、職人や商人など大衆による寄進の教会が建てられていきます。そのような教会がゴシック様式建築として西欧中に拡がります。高く聳える尖塔、開口部の尖頭アーチ、ステンドグラスの窓、高い天井等が特徴の教会建築は、まさに「神の住まう」空間として新しい時代のキリスト社会の扉を開きました。

2011年9月24日土曜日

旅支度37

 人里離れた場所に建てられたクリュニー会、シトー会の修道院教会は、一〇世紀から一二世紀にかけて多用されたロマネスクと言われる建築様式で建てられました。厚い壁、開口部の半円アーチと石造の穹窿天井が特徴です。
 ロマネスク様式の修道院教会は、一六世紀の宗教改革、一八世紀のナポレオン戦争を通して多くが消失しますが、現在でも西欧でロマネスク様式の教会を目にする事ができます。建物はフランス、イタリアそしてスペインに拡がります。クリュニー会、シトー会の始まったフランスでは、ヴェズレーのサント・マリー・マドレーヌ。クレルモン・フェランのノートル・ダム・デュポー。フォントネーのフォントネー修道院(シトー会)。ル・トロネのル・トロネ修道院(シトー会)。ヌヴェールのサン・エティエンヌ教会堂。ル・ピュイのノートル・ダム大聖堂、サン・ミシェル・デギーユ礼拝堂。トゥールーズのサン・セルナン教会堂等があります。続く

2011年8月26日金曜日

旅支度25


 日本の戦後は奇跡の復興といわれる経済発展を遂げました。外国から驚きの目で見られましたが、焦土と化した国土を建て直し、何とか食べていくために遣ってきた結果です。その過程では時代の流れにも助けられていますが、戦争をしない、出来ない憲法に守られて、先人がひたすら額に汗水して働き続けたシンプルな経済の結果でした。そして八〇年代までほぼ右肩上がりの経済発展を続けましたが、合衆国が前面に押し出したクリントンの九〇年代の経済の影響を受けて日本の経済システムも変化しました。終身雇用廃止やリストラ、異常な金融経済の拡大など、それまでの経済とは明らかに変化しました。労働の変質が起こりました。
日本の戦後復興が合衆国の型に嵌り奇跡の復興を果たしたように、今後も合衆国型のシステムに乗っかって果たしてうまく行くのか?正しい方向へ向かっていけるのか?続く

2011年8月21日日曜日

旅支度24

 九一年の湾岸戦争は多国籍軍の参戦から約二ヵ月後にはイラクが敗戦を認め停戦協定が結ばれて終結しました。身内の問題は身内で処理しようというイスラム社会。部外者に立ち入られて不満は溜まって行ったと思います。
一〇年後、合衆国での同時多発テロ。そしてその二年後、合衆国は国連と歩調を合わせることなく有志連合を糾合して対イラク戦争を主導しました。二〇〇〇年代に入り合衆国は対イスラム教の国々(勢力)との戦争に関わっています。第二次世界大戦で日本(三国同盟側)に勝利して以来、ベトナム戦争の教訓も生かされること無く、対アジア諸国との戦争に一度も勝利していないのですが・・・。
 九三年、民主党のビル・クリントンが大統領に就任します。外交より内政に重点を置き長年続いた財政赤字を黒字へ転換しています。日本のバブル経済が湾岸戦争頃にはじけ停滞期に入り始めると、合衆国はIT経済といわれる好景気を享受し始めていました。
欧州のEUに対して、合衆国は北米大陸での貿易圏拡大を計ります。カナダ、メキシコと自由貿易協定を結びます。アジアでは中国との貿易を重視、日米貿易では日本側の商習慣にまで立ち入るような「スーパー三〇一条」という合衆国の法律を盾に日本のそれまでの経済システムに変更を求めてきました。

2011年8月16日火曜日

旅支度23

  ここで冷戦終了前の旧東欧の話を。
旧東欧時代の七カ国を添乗した際に現地ガイドと話しました。ルーマニア以外のガイドは誰一人としてソ連に好意を持っている人はいませんでした。大戦終了直後は社会主義の平等社会に希望を託していたのかもしれませんが、現実は自由の無い社会で半世紀近くも生活していた人々の不満は溜まり続けていました。五十年代、六十年代には、ハンガリー(ハンガリー動乱)とチェコスロバキア(プラハの春)で市民革命が起きています。ソ連も心底嫌われていました。共産主義社会では党員になれなければ国(共産党)の為に尽くすだけの労働者です。それ以外の何者でもありません。そのような国民は無表情で生気も無く機械のような生活を送っているように見えました。八九年、東西冷戦終了の象徴となったベルリンの壁崩壊によって確かな自由を手にした東欧の人々の喜びは我々には想像出来ない出来事だったと思います。
九十年代には欧州が経済でひとつにまとまりつつある中で、中東のイスラム圏諸国には別の世界がありました。続く

2011年8月4日木曜日

旅支度21 


 レーガン大統領はカーター政権の外交を弱腰と非難し軍備拡張に政策転換します。合衆国の政治は民主党と共和党では全く違います。政権が変われば組織も上から下までがらりと変わります。レーガンの提示した、強い合衆国を取り戻そうという政策は自信を失いかけていた国民にも心地よかったと思います。二期八年の大統領職を務めています。米ソデタントを否定し、反共主義運動を支持、カリブ海のグレナダ侵攻やニカラグアへの介入も躊躇無く行っています。カーター政権時代、親米のパーレビ政権からホメイニ師のイスラム政権に変わっていたイランはニカラグアと共に、世界的なスキャンダルとなるイラン・ゲート事件(イラン・コントラ事件)の舞台になりました。議会で反対されていたイランへの武器輸出、ニカラグアの反共ゲリラに対する資金提供が禁止されていましたが、レーガン政権はイランへの武器販売代金をニカラグアの反共ゲリラに資金提供していました。合衆国の外交手法は摩訶不思議です。まるで戦争の火種を撒き散らす手法!?
レーガン政権の八年間は徹底した反共主義に貫かれ次の政権へと引き継がれます。続く

2011年8月1日月曜日

旅支度20


 七六年、カーター大統領の登場は、政治に対する不信、自信喪失で疲弊した合衆国の変化を求める合衆国国民の選択でした。
日本のマスコミも、大統領はジョージア州のピーナッツ農場の経営者で、それまでの大統領とは毛色の違う庶民的な人権大統領と報じました。何か遣ってくれそうな雰囲気の大統領として扱っていました。
 中東戦争を通して敵対関係にあったイスラエルとエジプトの間に平和条約の「キャンプデービッド合意」を締結させたのも人権大統領といわれたカーターです。当時のエジプトの大統領がサダト。副大統領がムバラクでした。それまで馴染みの無かったイスラム教の国々が日本のマスコミにも登場します。
七二年に始まったイラン革命において合衆国の支持したパーレビ国王がイラン国民によって追放されます。国民の支持したイスラム教のホメイニ師が最高指導者として政治を執ることになりました。
七九年、イランの合衆国大使館人質事件が発生します。逃亡後のパーレビ元国王を支援する合衆国に対して、イラン国内のシーア派の学生達が合衆国大使館を占拠する事件が起きました。事件解決までに一年以上を要する事態はカーターの指導力に疑問符が付けられることになります。
 カーターはニクソンのデタント、戦略兵器削減交渉を推し進めていましたが外交では失政を繰り返します。イラン革命やソ連のアフガニスタン侵攻を防げず、二期目の大統領選でレーガン大統領に敗れます。仲直りさせる事は上手かったようですが、力を背景にした外交は苦手だったようです。
 七十年代後半から歴史の舞台はアジアから中東・イスラム圏に移っていきます。続く

2011年7月31日日曜日

旅支度19

 アメリカ合衆国
 
 
 一九五四年にフランスのインドシナ政策を援助する為に、合衆国は軍隊をベトナムに派遣しました。ベトナム戦争は、第二次世界大戦終了後から一九八九年のベルリンの壁崩壊まで続いた冷戦の当事国である米ソの代理戦争とも言われました。先にも書きましたが、合衆国は私にとって最初の外国でした。当初はベトナム戦争の意味はわかりませんでしたが、時間が経つにつれて合衆国でも日本でも反戦デモが起こり、学生運動が激しくなっていく様子が連日、報道されるようになると僅かな疑問もわいていました。当事国でなくても間接的に関わっている戦争が次第に尋常なものでないと意識し始めたのだと思います。戦争自体が尋常でない行為だということを日米の反戦デモは確かに体を張って表現していたのです。
残念ながら戦争は、その後もどこかで繰り返えされます。合衆国が関わりながら・・・。
 合衆国はベトナムに約二〇年ほど関わりますが、ほとんど何も得ることなく撤退しています。一九七三年です。私が二十歳の時に終了した戦争ですので、メディアが流した戦争の様子は今でも憶えています。「枯れ葉剤の散布」、「ベトちゃん、ドクちゃん」「サイゴンでの処刑」の写真、「ボート・ピープル」等など。たくさんの記事を目にしました。     
 一九六三年、ケネディ大統領の暗殺事件では日米初のテレビ中継放送が有りました。    
 一九六八年にはマルティン・ルーサー・キング牧師が暗殺されました。日本でも大きく報じられました。牧師が長年続けてきた公民権運動に対して、ジョンソン大統領は公民権(人権)法を制定させ、法律上の人種差別を無効とします。
 ニクソン大統領は、日本でも大々的に報道されたウォーター・ゲート事件により任期途中で辞任。ベトナム戦争終了は合衆国の支援した南ベトナムへの北ベトナム軍侵攻によって終わります。合衆国にとってひとつの区切りになったと思いますが、その教訓は生かされませんでした。莫大な資金を投入したベトナム戦争では大きな成果は得られず、国内では反戦運動、政治不信、対外的にはソ連との戦略兵器削減交渉(SALT)によって米ソ共に軍備制限を行う交渉は行いましたが、戦争放棄を話し合うことはありませんでした。合衆国の財政は慢性的な赤字傾向を続けていくことになります。欧州においても大戦後の軍備について社会主義圏のワルシャワ条約機構と自由主義圏のNATOの軍備の均衡が図られました。これらの軍備の均衡(デタント)は八九年のベルリンの壁崩壊まで続きます。続く

2011年7月30日土曜日

旅支度18


 八五年頃、西欧のホテルで見ることのできた合衆国の番組はケーブルテレビの「CNN」でしたが、九十年代に入って他の合衆国のテレビ局がチャンネルを持つようになりました。番組では金融関係が増え、地元のテレビ局も株式情報などの経済番組を始めるようになっていました。 経済の「グローバリゼーション」がひときわ目立つようになり、いつの間にか合衆国と同じ土俵に立ったのです。以前のように、ゆったりと、時間をかけた変化を失っているようでした。後に八〇年代以降を振り返った時、「すごい時期に添乗を遣っていた」と思いおこすことになりそうです。
一大変化の九〇年代です。
 仕事柄、多くの国を観る機会を得ました。訪れた国の多くが合衆国の影響を受けています。合衆国に対して好悪は有ってもその影響は免れません。「合衆国とは違う!」というプライドを持っていた欧州さえ、経済のグローバリゼーションに飲み込まれてしまいました。「グローバリゼーション」。合衆国の発信した合衆国流の規格。
長い前置きになりました。さあ、改めて合衆国探訪へ出発です。どうぞお付き合いください。続く

2011年7月27日水曜日

旅支度15


 プロテスタント社会の合衆国はカトリック社会(旧大陸的な制度)を拒否していました。欧州の貴族制度を否定した合衆国には貴族は存在せず、皆が自由に、平等に己自身の力で切り開く機会と場所が提供されていました。 一九世紀半ばには、そのような合衆国に多くのカトリック教徒の移民団が押し寄せます。
アングロ・サクソンのプロテスタント社会が徐々に変化する時代に入っていきます。また、その時代には合衆国の人々にとって深い傷として残る南北戦争が起こりますが、この戦争は合衆国を確実にアメリカ合衆国として一つにするきっかけにもなりました。南部の人々にはわだかまりを残しますが・・・。人も国家も己自身を頼りに突き進んで行きます。
新大陸の開拓が終了すると、新たな開拓は太平洋を西へ西へと進み鎖国の日本に到達します。当時、欧州の国々は東へ東へと進み中国大陸に達し、アジアにおいて帝国主義的な動きを活発化させていました。
合衆国が現代社会の表舞台に登場するまでもうしばらくです。続く

2011年7月25日月曜日

旅支度14


 経済の難しい事は解りませんから身の回りの話を。二十年以上前、ニューヨーク・マンハッタン観光の最中に一つの光景を目にしました。一人の男性が六、七匹の犬を散歩させていました。ガイドに尋ねると、それを生業にしているとの事。散歩させる時間の無い飼い主に代わって、犬の散歩業が流行っているとの事でした。
肥満体の人が多い一方でスポーツジムやダイエット産業が流行ります。熱いコーヒーを溢して(自分の不注意で)火傷したと裁判を起こされた店が億単位の賠償金を請求される社会です。石を投げれば弁護士に当たるといわれるぐらい弁護士が多い国です。金を稼ぐためにいろいろな方法が考え出され続けています。生業が子から孫へと代々引き継がれ職人を生み出してきた欧州と違い、合衆国では流行のような職業が次々と生み出されては消えていく社会です。欧州のような職人が現れる機会は有りませんでした。恐らく、当初から職人を必要としない社会を作り上げたのが合衆国です。如何に効率よく金を稼ぐか、を優先してきた社会の仕事(職業)に対する姿勢は欧州の職業観とは違います。自由と平等の合衆国では、カトリックの聖職者と信徒のような親方と弟子という徒弟制度は初めから念頭になかったようです。続く

2011年7月22日金曜日

旅支度13

 合衆国の礎は、十七世紀、英国の清教徒移民によって築かれました。カルヴァン派の流れを汲むプロテスタントの信者たちが作り上げた社会です。その後も信仰の自由を求めて多くのキリスト教徒の集団が移住します。彼らにとって欧州大陸のキリスト教(カトリック)は信仰の上でも異質で旧い教えでした。それらの新旧のキリスト教を信仰する人々は、同じキリスト教徒でありながら考え方の違いにより、それぞれの大陸で作り上げていった生活習慣、文化にも違いを生みます。新大陸の合衆国は旧大陸の欧州を意識しながら独自の文化を作り出し、過去に囚われない自由な発想は身の回りのものから芸術の分野においても旧大陸には無かったもの作り出しました。現代においても新しいものを作り続ける合衆国のエネルギーには敵いそうにありません。縦横無尽な発想で生み出されたお金(経済)の絡む商品は世界を席巻しています。続く

2011年7月21日木曜日

旅支度12

 海外添乗を始めて気付いた事がひとつ。
新聞報道で日本の特異性を論ずる時に比較対象として外国が引き合いに出される事がありましたが、合衆国と欧州を一括りにして「欧米」という言葉を使い日本を卑下した表現が一時期目に付きました。しかし、合衆国と欧州は似て非なる国でした。互いにキリスト教という一神教をベースにした人々の国々(現在は他の一神教の人々もいますが)ですが、明らかに違いました。八〇年代中頃から日本の教職員の皆さんと外国の学校を視察するツアーに添乗する機会がありました。一ヶ月かけて欧州と合衆国の学校を視察した時に双方の国々の違いを実感したのです。欧州から合衆国に辿り着いた時、身の回りの様子が日本に居る時と同じでほっとした事を覚えています。合衆国を追いかけて遣ってきたのですから当たり前の事なのでが・・・。欧州の様子は日本と全く違いました。身近なことで言えば、コンビニ、郊外型ショッピングモール、ファーストフード、自販機(合衆国は屋内に備えている場合が多いですが)、ショッピング後の商品交換可能等など。身の回りの生活に関わる事では不自由なく旅行できたのが合衆国です。当時、欧州ではほとんど目にすることが出来ない社会でした。機能性、利便性を追及した合衆国社会と人間の生体機能を大切にしてきた欧州社会の違いと思います。欧州では機械に使われる事を嫌う風があります。人間らしさ失うより多少の不便は人間が我慢すれば良いと考えているようです。「欧米」は似て非なる社会です。続く