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2012年2月1日水曜日

旅支度68

  一六二〇年一二月、ニュープリマス(現在のマサチューセッツ州プリマス)へ清教徒の集団が上陸しました。新大陸へ遣ってきた彼らの主目的は地上に神の国をつくることでした。彼らは単なる個人の集合体ではなく、信仰に基づく世界を築くという意識を持った人々の共同体建設を目指していました。  すでにそれ以前に、コロンブスの探検を初めとしてイギリス、フランス、ポルトガルなどが新大陸への接触を持っていましたが、それらは経済的意味あいの強いものでした。  上陸前にメイフラワー号内で、移住者の宗教的共同体として在りかたを述べた契約書が作成されます。「メイフラワー盟約」です。  英国を出向した船内は、オランダ経由の清教徒を含め、ウィリアム・ブラッドフォードに率いられた分離派の清教徒など、さまざまな経歴の人々の集まりでした。航海中の船内での人々の不満や反抗的な言動が、盟約を結ばせることになります。国王の特許状と変わらない、ある点ではメイフラワー号の人々にとっていっそう確固たるものになる契約が移住者たちによっては結ばれたのです。  ウィリアム・ブラッドフォードはその後、総督としてプリマス植民地の建設に尽力しています。続く

2012年1月28日土曜日

旅支度67

  新 大 陸  1600年代前半、旧大陸では三〇年戦争においてカトリックとプロテスタントが自陣の存亡をかけた戦いを行っていました。  人間にとって有史以前から普遍的な信仰が、時代と共に次第にその姿を具現化し、キリスト教という宗教をかたち作った時、神はそのすがたを隠したのだと思います。ことばから次第に神が離れていったのです。 近世は、(神の)ことばから解き放された時代でもありました。ことばが自由に使えるようになる一方で、(神の)ことばに代わるものが求められる事になります。  キリスト教新旧両派の戦いは欧州を巻き込み、聖俗が入り乱れた混沌とした社会を生み出しました。利害で突き動かされた旧大陸の社会、混沌とした明かりの見えない暗闇を抜け出して新大陸を目指した集団が、信教の自由を求めた清教徒でした。彼らは純粋に新教による新しい国を建国しようと新大陸に渡っています。また、新大陸を目指したのは信仰集団だけではなく、欧州で一等国を目指すエリザベス一世の英国も同様でした。コロンブスの新大陸発見以降、旧大陸の国、人々を惹きつけるあらゆるものを備えた新世界。旧大陸の人々にとって新世界は、物心両面を満たしてくれる大陸でした。続く

2012年1月24日火曜日

旅支度66

  イギリスではヘンリー八世が一六世紀初頭、国王至上権を発して英国国教会を創設、カトリック教会から離脱します。国教会創設の発端は、カトリックでは認められない離婚を強行して破門されたことでした。  英国国教会はプロテスタントに分類されますが、典礼にはカトリック教会との共通点を多く残しています。ヘンリー八世は、当初、ルターの宗教改革を批判した熱心なカトリック教徒でした。教皇から「信仰の擁護者」の称号を授かり王国の教会の首長の役割も負っていましたが、カトリックからの分離が大陸からのプロテスタントを流入させることになりました。  ヘンリー八世の英国国教会はカトリック的な要素を残します。変革を嫌う宗教信条はカトリック的であり、教皇に代わり国王自ら宗教も治めようという試みでした。反バチカンという点ではプロテスタントと同じです。その後、ヘンリー八世の宗教政策は次代の国王へ引き継がれていきます。  エドワード八世、エリザベス一世と、国教会の強化に努めます。国教会の強化はとりもなおさず王権の強化でもありました。「礼拝統一法」では、国教会の典礼、祈祷の内容を統一したり、一般信徒には教会への礼拝出席を義務づけました。あたかも政教一致の政治が行われました。しかし、エリザベス一世治下、国教会の中にも異を唱えるグループが現れます。国教会に対して宗教改革を唱える会衆派(プロテスタント)の創始者ロバート・ブラウンです。教会は自覚的信仰者の集合体であり、教会の改革は信仰者自ら行うものと説きます。国の関与を否定したブラウンは国教会を離れて改革運動を始めていました。分離派と呼ばれた一部の信徒は国の弾圧を受けると、信教の自由を求めて一六二〇年、新大陸に渡ります。合衆国の礎を築くことになる清教徒、ピルグリム・ファーザーズです。続く

2012年1月11日水曜日

旅支度64

  カルヴァンの教説の中に「二重予定説」があります。この世のできごとは、すでに神の計画の中の事象であり、救われるように運命づけられている人間も地獄に落ちる予定の人間も神の意志の中にあり、人間にはどうすることもできないと・・・。この教説は波紋を広げました。果たして自分は、天国行きか地獄行きの人間か。聖書(ことば)による信仰のプロテスタントは常に揺れ続けました。宗教改革で生まれたカルヴァン派も他の宗派を生み出すことになります。  キリストは人間の原罪を償うために磔になり、復活して、「再生」を果たしたといわれます。生まれ変わることで救われるという教えは、当時の人びとにとって衝撃だったようです。死んだ者が生き返る! キリストの再臨を待望するキリスト教への改宗者を増やしますが、時未だ成らずでした。  カトリック教会は、神と地上を繋ぐ秘蹟と呼ばれる祭式を採り行うようになります。その一つが「洗礼」です。水を用いる儀式は昔から清めの意味あいがありますが、カトリックの「洗礼」は生命の再生を意味しました。洗礼によって生まれ変わり人間は善き人として救われ、キリスト信徒を表す証となりました。洗礼は秘蹟の中では最も古いものになりますが、聖餐式などと共に一二、三世紀頃から教会の儀式として定式化していきます。   プロテスタントでは、キリストが洗礼を行ったという記述が聖書に無いということで、洗礼を行わない宗派もあります。続く

2012年1月6日金曜日

旅支度63

 一五世紀、西欧で活版印刷機が作られ市民は聖書を読む機会を増やしていきました。それまでラテン語で書かれた聖書を読めたのは教育を受けた人(聖職者)しかいませんでしたが、各国においてその国のことばで聖書が翻訳されると、聖書は市民に浸透していきます。ルターは自身の教説を表明する手段として印刷物を活用します。量産される印刷物が社会変革を起こします。教育を受ける機会を得ていた市民は、自身で聖書を理解する機会を得ました。    カトリックでは聖書は聖職者のものでしたが、プロテスタントでは一人ひとりが聖書と向き合うことでした。教会=聖職者を否定し、自身で聖書を読み、理解する必要がありました。一人ひとりが祭司として聖書と向き合う信仰は、その後、さまざまなプロテスタント宗派を生み出すこととなります。そして、それぞれの宗派が活動の場所を求めて欧州各国、新大陸へと拡がります。続く

2012年1月5日木曜日

丘の上の町

現在、今秋のUSA大統領選の共和党候補者選びが行われています。本日、アイオワ州の投票が行われました。大統領選の度に使われるタイトルのフレーズ。約400年前に新大陸に信教の自由を求めて渡った清教徒が使った言葉です。それが400年経っても使われます。精神は清教徒でしょうか?「丘の上の町」の建設に胸ふくらませて新大陸で信仰生活を送った清教徒と、現代の合衆国の大統領候補者が使うフレーズとは違うように感じます。「丘の上の町」。それは、世界の希望、憧れ、手本などなど、仰ぎ見られる存在となるべき町の建設だったと思います。しかし、現代の合衆国のこれまで(第二次世界大戦以降)の歴史は、400年前に理想とされた町の建設を完成させていないように感じます。世界というのは合衆国だけの世界の事か?  自由という心地良いフレーズに惑わされて酔わされてUSAの思う壺に嵌ってしまったような感覚。 違う意見の対称には容赦ない自由。これが、合衆国の求めた「丘の上の町」でしょうか?

2011年12月31日土曜日

旅支度62

 ルター、カルヴァン、彼らの宣教対象は都市市民であり、新興貴族はプロテスタント支持者となりました。ゴシックが表舞台から姿を消して、人間復興のルネッサンスが登場しても領主に従属していた農民は旧来のままでした。領主の宗教(宗派)がそのまま農民の宗教だったのです。  聖書を唯一とするプロテスタントでは、文字が読めなければ話になりません。一三世紀には都市に学校が造られ、市民には教育の機会も生まれましたが、農村では以前と変わらない(信仰)生活が続き教育を受ける機会はほとんどありませんでした。ルターもカルヴァンも聖職者でしたが、総ての人々を神の国へ導く事は出来ませんでした。キリスト(救世主)には成りきれませんでした。農民の中に入りこんで宣教と言う発想はなかったようです。プロテスタントの「万人祭司」は一人ひとりが祭司として聖書と向き合うことでした。聖書を理解する事が基本です。カトリックのように聖職者から聞かされる聖書のことばは否定されました。続く

2011年11月30日水曜日

旅支度59

 ジャン・カルヴァンで忘れられない事がひとつあります。高校時代の世界史で目にした「労働は神が与えた天職だ」という文章が非常に印象深く残っています。カルヴァンのことばです。高校を卒業しても、いつまでも気持ちのどこかに常に引っかかっていました。カルヴァンという聖職者を表現するものとして表記されていたと思いますが・・・。  添乗で西欧に触れるようになると、そこがキリスト教社会であることを改めて実感しました。西欧はキリスト教抜きでは成り立たない事も知りました。スイスのジュネーブで活動したカルヴァンの人となりも垣間見ました。スイスではカルヴァン以外にも宗教改革を担った人物が出ています。チューリッヒのツヴィングリ。宗教改革の火の手は西欧中に拡がります。フランス、オランダ、イギリスそしてスコットランド等など。 ジュネーブのバスチョン公園には宗教改革記念碑があります。宗教改革者の像、記念碑が並んでいますが、カルヴァンは頭を少し下げ、聖書を手にして、頬のこけた禁欲的な雰囲気を漂わせています。聖書のことばだけを厳格に信仰(生活)に求めたカルヴァン主義の実践されたジュネーブは、あたかも修道院の世界だったかもしれません。 そのようなカルヴァンのキリスト教が新大陸に渡ります。続く

2011年11月26日土曜日

旅支度58

一五一七年、司祭であったマルティン・ルターが彼のことばを吐いたのです。サン・ピエトロ大聖堂の改修のために販売された免罪符が罪の放免になるのか? ルターは彼の思いを「九五カ条の論題」にぶつけました。すでに十字軍遠征の頃から乱発されていた免罪符の問題提起は、ルターによって決定的になります。ルター以前に英国のジョン・ウィクリフやボヘミヤのヤン・フスがバチカンの姿勢を批判していましたが、ルターの運動はキリスト教社会を二分する決定的な事となりました。  ルターの運動を、当初バチカンは無視し、それまでの異端の動きとは違う事に気づきませんでした。と言うより情勢を見誤りました。バチカンが総てを管理できるほど単純な社会では無くなっていました。 「ことばは神であり、ことばが神と共にあった」時代は、キリスト教という宗教で社会を一つにまとめられましたが、ことばから神が離れ始めると同時に問題は噴出しました。唯一神がたくさんの神を生み出します。  ルターと前後してスイスではジャン・カルヴァンがことばを吐きます。彼も聖職者でした。キリスト教徒として聖書を唯一とし、彼は自身の聖書観を主張していきます。続く

2011年9月30日金曜日

旅支度41


 四八一年、クローヴィスがフランク王国(メロヴィング朝)の初代国王となります。西ローマ帝国崩壊から五年後です。生誕地は現在のベルギーで最古の街トゥルネーです。六世紀には司教座が置かれています。領土はロワール川北部へ広がり、北海からピレネー山脈までの北部ガリアに拡がります。そして五〇八年、王国の首都はパリへ。旧ローマ帝国内でのフランク王国の領土拡張は、キリスト教が王国を統一する上で王国の共通の柱となる重要な要因でした。その後の歴代国王もキリスト教徒としてローマ教会と良好な関係を維持しながら領土拡張を行っています。
八世紀、メロヴィング王朝末期の宰相としていた仕えていたピピン三世(小ピピン)がメロヴィング王朝を廃してカロリング王朝を開きます。七五一年、ローマ教皇に承認された王は、ランゴバルト王国との戦いに勝利しラヴェンナを教皇に献上しています。「ピピンの寄進」と呼ばれるもので、これが「教皇領」の始まりといわれます。王国の領土も拡大し、それに伴って教皇との関係も深まっていきました。続く

2011年9月19日月曜日

旅支度36


 十世紀初頭、ベネディクト会の精神を引継ぐクリュニー会がアキテーヌ公ギョーム一世と言う人物によって創立されました。世俗の献身的なキリスト教徒です。創設されて直ぐに教皇の認可を受けています。クリュニー会は聖俗両方の支持を得て西欧中に修道院、修道士を増やしていきました。傘下の修道院の数は最盛期には一五〇〇ほどに膨れ上がり聖俗社会で大きな影響を及ぼします。しかし肥大化した修道会は、次第に本来の「ベネディクト会則」に沿った修道生活とはかけ離れていきます。祈りと瞑想が重視され労働が疎かになっていきます。世俗からの寄進により莫大な富が集中するようになると、祈る場所は豪華になり、荘厳な典礼が行われるようになりました。世俗に対して目に見えるかたちでキリスト教の精神性を伝える必要があったのかもしれません。祈りと瞑想の質実・簡素な精神的修道を重視していたはずですが・・・。ベネディクト会則の修道生活を求める修道士の中には別の道を求める者も出てきます。ベネディクトゥスの精神を外れたクリュニー会は一二世紀末頃から次第に衰退していくことになります。続く

2011年9月17日土曜日

旅支度35


ベネディクトゥスが活躍した約一世紀前、西ローマ帝国は滅びました。ローマ帝国は東西に分裂しそれぞれの道を歩むことになりましたが、西ローマ帝国はゲルマン民族の侵入などが原因で国の体裁を保てなくなります。ローマ帝国=キリスト教社会であった領土への異教の民族侵入は異文化の流入でもありました。ローマ帝国という後ろ盾の無くなったキリスト教はゲルマン民族であるフランク族を後ろ盾に選びます。フランク族もキリスト教へ改宗することで旧ローマ帝国領土内での権力固めを図ります。初期キリスト教時代、キリスト教徒は歴代の皇帝から迫害され苦難の時代を送りますが、迫害されればされるほど彼らの結束は固められ、次第にローマ人の中にも信者を増やしていきました。そしてコンスタンティヌス大帝によるキリスト教公認、その後の国教へとキリスト教が帝国内に浸透していきます。しかしそれはキリスト教の世俗化も意味しました。キリスト自身、世俗権力を認めていたので、その権力との共存、関わりの中でキリスト教も存在します。あくまで世俗権力はキリスト教に従属するものと考えられていましたが・・・。しかし両者の力関係はそのバランスを崩した時、容赦ない敵対関係を生みました。聖と俗という性質の違う権力が互いの存在を受け入れなくなり権力の潰し合いが始まります。その萌芽はキリスト教が世俗権力と関わった時に始まったと思います。族長がキリスト教に改宗すると部族全員がキリスト教徒になる社会は、迫害の中でキリストへ忠誠を誓い続けた社会とは明らかに違います。
フランク族と云う新しい保護者が現れ、旧西ローマ帝国=キリスト社会の再興がなった時、ひとときの平和が訪れます。しかし、更なる異民族の侵入、フランク王国の分割などが再び欧州を混沌とした時代に後戻りさせます。そのような混沌の時代に生きたのがキリストの教えを求めたヴェネディクトゥスであり、聖なる空間を求めた多くの修道士たちです。続く

2011年9月15日木曜日

旅支度34


 モンテ・カッシーノはローマとナポリの中間辺りに位置します。山頂には約千五百年の歴史を歩んだベネディクト会修道院総本山の建物がまるで天に向かって建っています。その様子は高速道路からも見える大きな建造物です。未だに宗派を問わず聖人として慕われるベネディクトゥスのモンテ・カッシーノの修道院はこれまで何度か破壊されています。その一つが一九四四年一月、ドイツ軍と連合軍の激戦です。硫黄島、ノルマンジーの戦い同様多くの戦死者を出していますが、その際に、合衆国の日系兵士(ハワイ出身)で編成された第四四二連隊(第一〇〇歩兵大隊)は最前線で戦い続け多くの戦死者を出しました。歴史から見落とされがちな激戦が行われた場所です。修道院はドイツ軍の重要拠点と考えた連合軍の爆撃によって全壊しました。現在、目にする修道院は戦後に再建されました。
五四七年、聖ベネディクトゥスはここで亡くなりこの修道院に葬られています。
その後、ベネディクト会の修道精神は後の修道会へと引き継がれます。 クリュニー会、シトー会、そしてフランシスコ会、ドミニコ会へ。続く

2011年9月13日火曜日

旅支度33


六世紀、西欧で最初の組織的な修道院が現われました。五二九年に創建されたイタリアのモンテ・カッシーノの修道院です。ヌルシアのベネディクトゥスが始めた修道士たちの修道場所です。彼自身は古代ローマ貴族の家系に生まれましたがキリストと共に生きる生活を選びます。彼以前にも隠修修道士として個人で修道生活する人たちもいましたが、ベネディクトゥスが初めて修道士の共同生活する共住修道院を設立します。戒律を定め「祈り、かつ働け」がベネディクト会の修道生活の基本となります。神から与えられた罰であった「労働」が修道院では重要な修道生活の一部を成しました。修道士にとって人類の背負わされた「労働」は、原罪を一身に背負って磔になったキリストと共に在る事を喜ぶ術だったのかもしれません。修道士には清貧、貞節、従順の規律のもとに終生キリストへの信仰に生きる事も求められました。しかし、修道院の「労働」がキリストへの信仰に基づき行われ、修道生活を補完する自給自足の範囲で収まっている間は問題はありませんでしたが、次第に世俗社会との関わりが生ずるとその特質が変容していきました。  
古代から忌み嫌われていた「労働」は、労働する人の受け取り方次第では辛いものであり感謝へ通ずる行為にもなります。キリストと共にある喜びを共有している修道士たちにとって「労働」は喜びだったと思います。
その後、修道院内で行われた「労働」の成果は世俗に拡がり彼らの生活にも影響を与えます。何故なら中世、修道院(教会)は生活の情報・技術の発信源となっていたからです。続く

2011年9月11日日曜日

旅支度31


旧約聖書の創世記三章に「楽園追放」が描かれています。神によって創られたアダムと連れ添いとしてアダムの脇腹から創られたイブは、善悪の木の実を口にして神との約束を破ります。その為に楽園(エデンの園)を追われます。神との約束さえ守れば、神と共に住まい、永遠の命を持って楽園で何不自由なく過ごせたようですが約束を守れませんでした。そして追放の際に神は二人に罰を与えます。イブには産の苦しみが与えられ、アダムには一生いばらとあざみが生えた荒地を耕し、野の草を食べる一生が与えられました。そこから人類(旧約聖書を拠り所とする)の苦難の物語がはじまります。
人類の祖であるアダムとイブの子供達は子々孫々、神との約束を守れなかったという原罪を背負っていくことになります。女には(お産の)苦しみ、男には耕作という労働が罪として背負わされました。     
 中世の「労働」と言えば主なものは農業です。文字の読めない農民にとって聖職者に聞かされる「楽園追放」の話は現実そのものだったと思います。生きる為の糧となる作物を育てる労働は必要不可欠にも関わらず、教会では神が与えた罰となってたのですから。恐らく、日々どのように生きていくかと言う状況の農民にとって、その労働環境はまさに神から与えられた罰だと考えても不思議ではなかったと思います。続く

2011年9月10日土曜日

旅支度30


 名言を吐いたパウロは、キリストの教えをひろめるために孤軍奮闘した聖人の一人です。中世後期、ヨブ記やヨハネ黙示録と同様に新約聖書のパウロの書簡はプロテスタントに影響を与えています。その聖パウロは多くのカトリック教会で聖ペテロと共に描かれます。イタリア、ローマのバチカン市国のサン・ピエトロ聖堂の建物正面の外階段上り口にも、ペテロは鍵を持ち、パウロは剣を持った像で立っています。
 西欧の国々を巡るとどこでも教会を目にします。特にカトリックの国(イタリア、スペイン、フランス)を訪れると教会の建物は今でも旧市街と呼ばれる街の中心にあります。建物の大きさ、内外の装飾の素晴らしさに、しばし「・・・」。最初の頃はそうでした。初めて観た時は驚きの連続でした。誰もが同じ印象を持つと思います。信仰を持たない人でも芸術作品として。建物の大きさ、歴史、内外の装飾などに驚かされます。そのような教会建築はゴシック様式と言われる時代の教会に多く見られます。鐘楼の塔は高くなり、ファサードと呼ばれる教会入り口の装飾、内部の彫刻、壁画に聖人や聖書の世界が描かれています。ゴシック時代の教会は、多くの人が文字の読めなかった中世時代、聖職者の読み聞かせる聖書の世界をより一層視覚的に人々に聖書の世界を伝える役割を果たしました。続く

2011年9月8日木曜日

旅支度29


 労働  
 

大正生まれの父がよく口にしていました。「働かざる者食うべからず」      
キリスト教徒でもない父親は、そう言いながら家族の為に働きました。恐らく、昔は誰でも働くことを厭わなかったのだと思います。戦後の復興期に何とか生きて行くために働き、その後も、より良い生活を求めて働き続けた両親にとって当たり前の事が当たり前に出来ていました。額に汗して労働することが当たり前の時代に生まれ育った両親は、働きたくても働けない時代と比べれば幸せだったと思います。
父のよく口にしていた「働かざる者食うべからず」は、約2千年前のキリスト教徒パウロが「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」(テサロニケ人への第二の手紙3:10-口語訳聖書一九五四年)と述べています。洋の東西を問わず「労働」は「生きていく」為に大事なことだったのです。キリスト教徒にとっては信仰の上でも。
父親は「働く」ということは、はたはたを楽させることだ、とも言いました。人間の基本的な生活行為である「労働」、「働く」場所はますます奪われていこうとしています。 
時代と共に経済を支える職業の形態が変化するのは致し方ない事かもしれませんが、常に変化を求め経済に活力を注ぎ込みながら遣ってきた合衆国ではどのような職業観があるのか? 
新大陸に渡った初期の移住者は清教徒です。旧教の束縛から逃れて新世界で新教を基本にした街を作ろうという希望に燃えていた人々です。信教の自由を求めて新大陸(合衆国)に渡った人々の労働観を辿ってみたいと思います。脇道に逸れることも有るかと思いますが、どうぞお付き合いを下さい。続く

2011年9月5日月曜日

旅支度28


 二〇世紀に入って、金融理論、金融経済、金融工学などと、金を融通するための考え方、方法などが学問されるようになりました。「実体経済」が生み出してきた商品とは違う商品が八〇年代から幅を利かせています。それまで、こつこつと築き挙げた実体経済を、一瞬のうちに呑み込む数字が闊歩しています。実体生活の中にいる労働者は災難です。九〇年代に入って合衆国の専売特許であった「リストラ」が日本でも始まります。企業利益が優先され労働者が簡単に首を切られるようになりました。
 そのような新しい経済を考え出した合衆国にも「労働」は神と関わる神聖な行いであるという考え方がありました。神を称え、神から認められる手段として「労働」は尊ばれましたが、次第にその特質を変えてしまったようです。今に始まった事では有りませんが、簡単にリストラして神との関係を断っている合衆国の企業。企業の業績が悪くなれば当たり前のように首切りを始めるようになった日本でも「労働」は、働くということは理屈抜きで尊ばれていた行為だったと思います。続く

2011年9月4日日曜日

旅支度27


 合衆国型経済?

 
二〇〇八年、世界の経済状況は一変しました。世界金融危機の始まりです。その年の前半と後半では生活状況ががらりと変わりました。金融商品を扱っていた金融機関が潰れます。合衆国から始まった金融危機が世界を駆け巡ります。原因は「サブプライムローン」問題と言われています。二〇〇七年頃からメディアに登場した言葉です。数字を弄って、転がして、気の遠くなるような桁の数字を作り出し、仕舞には実体経済とかけ離れてしまったと言うことでしょうか。
「サブプライムローン」の発信源が合衆国で、経済大国の金融問題が瞬く間に世界に拡がり世界的な金融危機に発展しました。これも経済の「グローバリゼーション」の賜物です。
世界に影響を及ぼすような金融問題はその一〇年前、二〇年前にも起きています。  
 一九九七年にはアジア通貨危機が起こり、タイを中心に東南アジア、東アジアに波及、世界の景気後退が起きました。市場主義を導入していたロシアも影響を受けます。この金融危機で韓国は破産状態となり国際通貨基金の支援を受けることになりました。ジョージ・ソロスやヘッジファンドと言う名前が頻繁にメディアに登場します。
 その十年前、一九八七年一〇月には、ブラックマンデーと名づけられた金融危機が起きています。ニューヨークの株価暴落に伴う世界同時株安です。景気後退。
 一九八〇年代から十年ごとに起きた金融危機。もしかすると数字の寿命は十年ぐらいなのでしょうか。経済規模が大きくなり、景気の波も正比例して大きくなれば僅かな変化で暴走する波動を生み出し、実体経済に押し寄せ経済破綻してしまう。実体経済(生活)とは違う規模の(金融)経済が意図的に作られて景気が左右され始めているようです。続く

2011年9月3日土曜日

旅支度26


 西欧から始まったEU拡大は二〇〇〇年代に入ると東欧諸国へも加盟国を増やし経済面でも東西の垣根を取り除いていきました。八〇年代、内向きだった欧州が急速に外へ外へと経済圏を拡大させています。
 八五年頃、西欧においてたびたび日本の工業製品の品質、素晴らしさを褒めてもらい、ソニーやホンダ、スズキなどの日本企業名を連呼して貰いました。旅行がブームになる前から日本の企業が海外に進出し営業努力した結果だと思います。日本からの旅行者が挙げた名前はルイ・ヴィトンやエルメス、シャネルといった服飾、皮革製品、装飾品などを扱う企業(店舗)でした。王族や貴族などを顧客とした企業にとって販売促進などという企業努力は必要ありませんでした。そして、貴族御用達の店に勝手に世界中から観光客が遣って来ていたのですから。
そのように内向きで遣ってきた欧州の企業が、九〇年代に入ると目に見えて合衆国型の経済システムを取り入れたビジネスを展開します。ファミリー企業が企業合併や買収を繰り返し組織を大きくすることに努めます。ルイ・ヴィトンは八十年代後半にシャンパン製造業者のモエ・ヘネシーと合併し、その後もグッチやフェンディ、スペインブランドのロエベなどを傘下に収めます。市場を大きくすることで生き残りを図っています。
アジアでは、社会主義を標榜する中国が経済的には市場主義を取り入れ急速な経済成長を続けています。
旧東欧の盟主であったロシアは共産主義を放棄して市場主義に熱心です。旧共産党員が市場主義の成果を享受しています。そして、総ての国が市場主義に右倣えで同じ道を突き進んでいます。続く