2001年を境に激動の世界(私にとって)に入り込んでしまった今日この頃。1980年代、90年代,そして2000年代の私の旅のあとさきを伝えていきます。 http://tabinoatosaki333.at.webry.info/もご覧下さい。
2011年12月28日水曜日
香港
写真は香港島のビクトリアピークから見た風景。
高層ビルで埋め尽くされた感があります。
街中を歩いても20,30年前の名残りは無くなっています。観光地と言うより商業地になってしまいました。
超高層ビル群は、まさに、USAのダウンタウン(商業地区)。世界中の大都市がUSAダウンタウンの金太郎飴になっていきます。
これもUSAの自由がもたらす一面です。面白くも何ともありません。
2011年9月26日月曜日
トロギール
本日はプリトビチェからシベニックからトロギール、スプリットと周って来ました。トロギールのガイドと再来年のEU加盟の話しになりました。「加盟に反対!」六月に加盟が決定したので、どうしようもない事ですが、EU既加盟国に食い物にされる事を心配していました。エリカのガイドの、政治家とビジネスマンの話しをすると納得、同意しました。クロアチアの人々の生活が豊かにはなっているようには見えません。
2011年9月24日土曜日
リエカ
リエカの街は古代ローマ時代に造られた街の遺跡が一部、残っています。イタリア、ドイツ軍が侵攻、占領した大戦末期には、連合軍の空爆を浴びて旧い建物は破壊されました。大戦後に建てられた物が多い街です。そんなガイドの説明を聞きながら、面白かった話しを一つ。大聖堂の後ろの高台に裁判所として使われている宮殿の建物があります。同じ建物の一部は牢獄として使われています。
「最近、収監された罪人は政治家とビジネスマン」とか。
「最近、収監された罪人は政治家とビジネスマン」とか。
リエカII
「最近、収監された罪人は政治家とビジネスマン」のコメントは、エリカのガイドのジョークでしたが、
その話を聞いた時、三月にザグレブで起きた反政府デモの報道を思い出していました。
ジョークとはいえシリアスなジョークに聞こえました。おそらく、ガイドだけでなくクロアチアの人びとの一般的な見方のように感じたジュークでした。2013年にEU加盟が決まったクロアチア。加盟が吉とでる凶と出るか。今回は、イスタンブール経由でバチカンに入りました。イスタンブールで半日観光を行った際、景気の話に成りました。悪くない景気。クロアチアと同時期にEU加盟申請を行っていますが、加盟は先延ばしになったようです。他のイスラムの国とは違う欧州寄りの一面を持っています。アジアと欧州の架け橋になれるトルコですから、今のままの状況が良いのでは?と言うのがガイドと話した結論になりました。全員が右向け右で何処へ向かっているか判らない状況に陥るより、自分の居場所が判っていれば違った方向を向いていても良い気がします。おかしいと、デモを起こすクロアチアの一般の人達の感覚は真面だと感じます。
その話を聞いた時、三月にザグレブで起きた反政府デモの報道を思い出していました。
ジョークとはいえシリアスなジョークに聞こえました。おそらく、ガイドだけでなくクロアチアの人びとの一般的な見方のように感じたジュークでした。2013年にEU加盟が決まったクロアチア。加盟が吉とでる凶と出るか。今回は、イスタンブール経由でバチカンに入りました。イスタンブールで半日観光を行った際、景気の話に成りました。悪くない景気。クロアチアと同時期にEU加盟申請を行っていますが、加盟は先延ばしになったようです。他のイスラムの国とは違う欧州寄りの一面を持っています。アジアと欧州の架け橋になれるトルコですから、今のままの状況が良いのでは?と言うのがガイドと話した結論になりました。全員が右向け右で何処へ向かっているか判らない状況に陥るより、自分の居場所が判っていれば違った方向を向いていても良い気がします。おかしいと、デモを起こすクロアチアの一般の人達の感覚は真面だと感じます。
2011年8月25日木曜日
世界の労働力
ロシアから帰国して、現地ガイドと話した事が引っかかっています。ロシアの若者が徴兵制で徴募され軍隊生活をおくりますが、その後、地元に戻っても職が無い。高等教育を受けようにもソ連時代のように皆がそれなりの教育が受けられた時代と違い、教育を受けるにも金がかかる状況では教育格差、賃金格差は出てきます。ソ連時代よりも現在が収入の減っている人の方が多いようです。
現在の市場経済は安い商品を大量に供給できる企業が主流です。90年代、西欧では家族経営が主だったブランドも身売りしたり、買収されたりで組織が変わっています。企業は安い商品を供給するために安い労働力を求めて右往左往しています。金融経済に振り回されながら。そのような状況で、ロシア、USAそしてEU(欧州)には近場に安い労働力が存在しました。ロシアには旧ソ連時代からの独立国が周辺に在って、そこから労働力がロシアの大都市に流れ込んでいます。自由の国、USAにも裏庭と言われる、南米、カリブ海諸国からたくさんの安い労働者が遣ってきます。EU圏内にもアフリカや中東諸国から労働力がたくさん遣ってきます。中国には自国にたくさんの労働力を抱えています。それらの国々では安い商品を供給、消費できる社会を簡単につくれました。戦後、いろいろ意味で平均化されていた日本だけが、90年代の経済バルブが弾けて路頭に迷った感じです。安い労働力を見つけるにも時間がかかり、商品を消費するにも日本全体が消費者になるしかありませんでした。長引くデフレです。安い商品を供給してそれらを消費する多くの人たち、そして今まで通り高い生活水準を保っている人たちが共存している国々と、平均化されていた日本では状況が違いました。
ロシアの職の無い若者の思いは、先日のロンドン市内の暴徒と同じ思いかもしれません。もともとの自国民を労働力として使えずに、自国民よりもっと安い労働力を利用せざるを得ない現在の経済。世界全体が同じ状況です。
どうしてもこのままハッピーエンドで終わりそうには思えません。
2011年8月21日日曜日
帰国
本日、帰国しました。今回の添乗は久しぶりに手応えがありました。二日目の観光中にお客様が掏摸に遭い、三日目はホテル出発直前に男性のお客様が段差に気付かず、足を踏み外して額を切り、病院に行く事になりました。四日目は飛行機で移動後のスーツケースの一時行方不明状態。十年、十五年振りの出来事でしょうか。
2011年7月29日金曜日
旅支度17
ECからEUとなり、九九年に流通の始まった欧州通貨・ユーロの導入が九二年のマーストリヒト条約で決定しました。EU加盟二七カ国中、一六カ国でユーロが流通しています。欧州内で国を超えて共通のシステムを作ろうという動きが進行中です。
添乗を遣っていてEUの活動を具体的に感じ始めたのが九〇年代に入ってからです。その中でユーロは肌で感じたEUの変化のひとつでした。ユーロの流通で両替の手間が軽減されました。両替以外での変化も有りました。観光バスには他国籍の運転手が多くなり(EU内の人、もの、サービスの移動が自由になった為)、運転時間が一日の労働時間を超えると、彼らが持ち出したのがEU共通の労働規約でした。イタリアやスペインなどラテン系の国では一日八時間以上のドライブもうるさくなかったのですが、九〇年代、徐々に運転手も現地旅行会社も労働規約の順守を求めるようになりました。EU内の変化は様々な面で加速度的に現われていました。続く
添乗を遣っていてEUの活動を具体的に感じ始めたのが九〇年代に入ってからです。その中でユーロは肌で感じたEUの変化のひとつでした。ユーロの流通で両替の手間が軽減されました。両替以外での変化も有りました。観光バスには他国籍の運転手が多くなり(EU内の人、もの、サービスの移動が自由になった為)、運転時間が一日の労働時間を超えると、彼らが持ち出したのがEU共通の労働規約でした。イタリアやスペインなどラテン系の国では一日八時間以上のドライブもうるさくなかったのですが、九〇年代、徐々に運転手も現地旅行会社も労働規約の順守を求めるようになりました。EU内の変化は様々な面で加速度的に現われていました。続く
2011年7月28日木曜日
スイス
スイスのルツェルンにカペル橋という名所があります。13世紀に造られた街を守る塔(後に給水塔)と木造の橋がルツェルン湖の入り口に架かっています。1993年に放火されて時代物の板絵が焼かれました。当時、CNNニュースで流された火災の実況中継を憶えています。現在は観光案内板と絵葉書になっています。カペル橋から歩いて20分ほど。氷河公園の中に「瀕死のライオン像」という一枚岩に彫られた石像があります。スイスの歴史を物語る像です。槍で突かれたライオンが横たわっています。図体の横にはスイスの楯を置き、前足で百合の花が描かれた楯を守るように押さえています。ライオン像は、1792年、フランスで起きた革命時にチュールリー宮殿(現在のチュールリー公園に在った)のフランス王家を最後まで守ったスイス傭兵隊を表しています。当時の欧州では多くの傭兵が各国で活動していましたが、もっとも勇敢で忠誠心のあった傭兵がスイスの傭兵と言われました。しかし、時代は次第に封建社会から民衆が声を上げ始めた時代になっていました。スイスでも「何故、外国人の為にスイス人が死ななくてはならないのか?」 傭兵制度が禁止されます。
2011年7月23日土曜日
復路
ただ今、復路のドバイ空港です。乗り継ぎ用のゲート前の椅子はどこも一杯です。夜中の出発便の何と多い事か。
ミラノ マルペンサ空港では隣りの出発ゲートがカイロ行きエジプト航空で満席のようでした。乗客は出稼ぎのエジプト人と旅行者? 日本からエジプトへの旅行は控えられている状況で、ミラノからのエジプト航空の利用者は多かったです。日本で報道される世界とは別の世界がありました。歪な世界の経済。
ノルウェー オスロでのテロ爆破事件。
欧米の金融危機のニュース。
世界中で政治不信が起きて、世界中が経済地獄へ突き進んでいる感じてす。
何故、経済状況の悪い日本円が円高になるのか?
ミラノ マルペンサ空港では隣りの出発ゲートがカイロ行きエジプト航空で満席のようでした。乗客は出稼ぎのエジプト人と旅行者? 日本からエジプトへの旅行は控えられている状況で、ミラノからのエジプト航空の利用者は多かったです。日本で報道される世界とは別の世界がありました。歪な世界の経済。
ノルウェー オスロでのテロ爆破事件。
欧米の金融危機のニュース。
世界中で政治不信が起きて、世界中が経済地獄へ突き進んでいる感じてす。
何故、経済状況の悪い日本円が円高になるのか?
2011年7月20日水曜日
おめでとう
一昨日は、女子ワールドカップの決勝戦を観戦していました。先手を取られ、追いつき、追加点をあげられて、また追いつき、最後はPKに持ち込んだ決勝戦。強かったUSAに対して、最後まで自分達の姿勢を崩さず粘りに粘った結果が最後のPKでした。勝つんだという気迫は、なでしこJAPANの方が強かったようです。PKで見せた双方の姿勢に両国の国民性も現れていたように思います。試合同様、ひたすら力で押す通すUSAのキッカー達に対して(PKにも慣れていない)、なでしこJAPANには用意周到な計算されたPKがありました。強烈なキックでなくてもゴールを奪えたなでしこのPK。そんなPKの様子を観ていて、ふと、福島原発の汚染水処理の水漏れのニュースを思い出していました。フランス・アルバ社の処理装置が二度、水漏れを起こしています。ニュースを聞いた時、さも有りなんと納得しました。仕事柄、外国人と接する機会が多いですが、話は半分で聞いています。話と現実がかけ離れていることが結構あります。100%、鵜呑みにすると怪我の元です。確認、確認で遣っても、足りません。
結果が良ければ、それでOK。体勢に影響が無ければ可とするところがあって、余り、細かい事に拘りません。
日本と外国の違いです。文化的な、考え方の違い。USAのPKとなでしこJAPANのPKに対する姿勢の違い。日本のサッカー界の歴史に残る試合でした。すごかった。
結果が良ければ、それでOK。体勢に影響が無ければ可とするところがあって、余り、細かい事に拘りません。
日本と外国の違いです。文化的な、考え方の違い。USAのPKとなでしこJAPANのPKに対する姿勢の違い。日本のサッカー界の歴史に残る試合でした。すごかった。
2011年7月17日日曜日
ドバイ空港
関空から10時間ほどで到着したドバイの空港。午前3:55に着いて4時間以上の待ち時間。この待ち時間になると無料の飲食が提供されます。しかし、入場するのに長蛇の列。搭乗券をチェックするスタッフが1人しかいない。案内所は飾り。人間がいない。エミレーツ航空は評判は良いようですが、空港は図体が大きいだけでスタッフなどのソフト面は最悪。100ヶ国の国籍の人びとの集まる国。安い人件費で賄えるからこそできる24時間空港。
2011年7月12日火曜日
旅支度11
第二次世界大戦後、アメリカ合衆国に占領された日本はすべての面で合衆国の影響を受けてここまで遣ってきましたが、八〇年代の西欧には、「我々は合衆国とは違う」という雰囲気がありました。ところが九〇年代になると変わっていきます。私が西欧で感じていた事の一つが西欧の国々の「閉鎖性」です。八〇年代、日本は合衆国に執拗なぐらいに「閉鎖性」を叩かれ、経済面も文化面も急速に合衆国化されてしまいましたが、西欧の国々を訪れてみて改めて西欧の「閉鎖性」を感じました。自分達の遣り方を頑なに守り、合衆国の言うなりにはならない、という強い思い。当時、合衆国が日本に対して強行に主張した「自由化」も西欧では聞きませんでしたし、合衆国も遠慮していたように思います。西欧の「合衆国とは違う」と言う思いを支えていたのは長い歴史です。歴史が彼らの精神を作り、建物を残し、街を残しました。どうしようも無い事ですが、合衆国には西欧の歴史が無い。歴史は西欧の拠りどころです。合衆国とは違い、これからも引き継がれてきた歴史は大切に残されていくと思いますが、大戦中の世代とは違う世代の人たちが増え、考え方も変わり合衆国を抵抗無く受け入れる人たちも増えています。当初、反対されていたマクドナルドを至るところで見かけるようになり、たくさんの若者が利用しています。都市では祝祭日には街の広場で見られた移動遊園地が以前に比べれば減ったようです。コンピューターやテレビゲームの普及で室内で過ごす時間が増えているのでしょうか。続く
2011年7月11日月曜日
アングロサクソン
先日、ロンドンから帰省して週末は時差で、ぼっーとしながら過ごしましたが、週明けて現実に戻るとロンドンでの出来事を思い出しています。不愉快な。
予め手配されていた夕食が当日、その時になって予約が入っていないの一点張り。フロントに確かめさせると、誰かがキャンセルしている、との回答。
誰かとは何者か?外部からキャンセルされておれば、ホテルとして相手の名前を確認しているのが一般的。名前も分からない誰かと言う事は身内にキャンセルした人間がいるのは明らか。絶対に自身の非を認めず、イキュスキューズしない、アングロサクソンの文化。未だに好きになれない文化です。
それではと、お客様への飲み物代を無料にさせた次第。仲間の間は好意的でも、敵と認識すると態度はガラリと変わります。此方に非は無くても。
旅支度10
八十年代後半になると欧州の添乗が多くなり、各国の主要都市では多くの日本人観光客を目にしました。定番旅行先のロンドン・パリ・ローマのブランド店には日本人旅行者が多く出入りし、パリのオペラ通りは日本人通りとも呼ばれ、たくさんの観光ツアー旅行者を案内しました。店舗側も大歓迎で日本人店員も愛想良く対応してくれました。恐らく、入店する旅行者は札束に見えていたと思います。
しかし、バブル経済が弾け日本人旅行者が激減すると、日本人を相手にしていた免税店はオペラ通りから徐々に数を減らしていきました。入れ替わるように九十年代には合衆国からの旅行者が姿を現します。どの都市を旅行しても西欧人とは違う雰囲気の、合衆国本土の人間とも違う雰囲気の合衆国からの旅行者がいました。上手く表現できませんが、無色の透明で小奇麗な身だしなみの合衆国人です。受け入れ側もちゃっかりしていました。サービスの比重は、金を落とさなくなった日本人から合衆国人へ変わっていきます。ホテルが合衆国の系列に変わると室内の照明はそれまでの薄暗いものから蛍光色の明るいものに変わり、日本語放送のテレビチャンネルも数を減らしていきました。ショーウィンドウの飾り付けも合衆国人好みへ変わり店舗全般のサービスは日本人旅行者以外に比重が移っていきました。その後、合衆国からの旅行者も湾岸戦争、9・11のテロを通して落ち着いていきました。そして現在は、中国、ロシアそしてアラブ系の旅行者が欧州の諸都市を闊歩しています。テレビでも中国語(北京語)、ロシア語そしてアラビア語のチャンネルが増えています。
九〇年代に入って日本の景気の悪さは徐々に旅行にも現われました。旅行は従来の値付けでは売れなくなり、安い値付けの旅行が主流となっていきます。他の商品と同じように、安い商品の大量生産、大量販売で利益を出すことが主流になっていきます。旅行催行日も、それまでの祝祭日では集客が少なくなり(旅行費用が高いですから)、安い値段設定の時期へと集客が増えていきます。続く
しかし、バブル経済が弾け日本人旅行者が激減すると、日本人を相手にしていた免税店はオペラ通りから徐々に数を減らしていきました。入れ替わるように九十年代には合衆国からの旅行者が姿を現します。どの都市を旅行しても西欧人とは違う雰囲気の、合衆国本土の人間とも違う雰囲気の合衆国からの旅行者がいました。上手く表現できませんが、無色の透明で小奇麗な身だしなみの合衆国人です。受け入れ側もちゃっかりしていました。サービスの比重は、金を落とさなくなった日本人から合衆国人へ変わっていきます。ホテルが合衆国の系列に変わると室内の照明はそれまでの薄暗いものから蛍光色の明るいものに変わり、日本語放送のテレビチャンネルも数を減らしていきました。ショーウィンドウの飾り付けも合衆国人好みへ変わり店舗全般のサービスは日本人旅行者以外に比重が移っていきました。その後、合衆国からの旅行者も湾岸戦争、9・11のテロを通して落ち着いていきました。そして現在は、中国、ロシアそしてアラブ系の旅行者が欧州の諸都市を闊歩しています。テレビでも中国語(北京語)、ロシア語そしてアラビア語のチャンネルが増えています。
九〇年代に入って日本の景気の悪さは徐々に旅行にも現われました。旅行は従来の値付けでは売れなくなり、安い値付けの旅行が主流となっていきます。他の商品と同じように、安い商品の大量生産、大量販売で利益を出すことが主流になっていきます。旅行催行日も、それまでの祝祭日では集客が少なくなり(旅行費用が高いですから)、安い値段設定の時期へと集客が増えていきます。続く
2011年7月9日土曜日
旅支度9
八〇年代、欧州はECと云われる欧州諸共同体が加盟国を増やして大国に対抗できる経済圏を作りつつありました。八六年、スペインとポルトガルが加盟しています。ECは現在のEU(欧州連合)と組織変更して加盟国を増やしていきますが、始まりは第二次大戦後の欧州自身による欧州の安定と経済発展の促進です。大戦の原因のひとつになった資源の共同管理を行う為に欧州石炭鉄鋼共同体を誕生させ、その後、経済、原子力共同体も欧州共同の管理下に置きます。六七年、それらの三つの共同体が統合されて欧州諸共同体が誕生しました。原初の共同体参加国はベネルクス三カ国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)と西ドイツ、フランスそしてイタリアの六カ国です。歴史の面白さです。この六カ国は、古代ローマが滅び新しい欧州(大陸)が形成される過程において中心となった国々(地域)です。最初の共同体草案者、創設者はその事を意識したのでしょうか。歴史は繰り返されるです。二〇〇七年現在、EU加盟国は二七ヵ国となっています。 続く
2011年7月8日金曜日
旅支度8
空港での話をもう少し。
入国審査場に入って見かたが変わります。
自信の塊のような合衆国。係官の高飛車で威圧的な態度は合衆国そのもの?! 否、日本人旅行者の並んでいる列は比較的消化が早いのですが、それ以外の列に並んでしまうとなかなか縮まらないのです。多民族国家の合衆国。今でも自由を求める多くの外国人が遣って来る移民国家。時代によって移民入国の政策は強化と緩和を繰り返してきました。自然と入国審査は厳しくせざるを得ないのかもしれません。しかし、合衆国の入国審査で気分良く入国した記憶は余りありません。
空港から街へ向かうと前方には高層ビルが立ち並ぶ一帯があります。ダウンタウン(商業地区)です。ニューヨークのマンハッタン島の超高層ビルディング群には本当に興奮しました。「こんなものを造れるんだ」と。高層ビルは合衆国の文化(?)で、当時、欧州には未だマンハッタン島のようなビル群を構える地区は数少なかったのです。合衆国ではどの州都を訪れてもダウンタウンと言われる高層ビル群の立ち並ぶ地区を備えてます。欧州の教会建築のように合衆国の高層ビルディングも、聖と俗の違いはありますがそれなりに年季が入っていて合衆国の象徴のようでした。ともかく最初の頃、合衆国は驚きの連続でした。続く
入国審査場に入って見かたが変わります。
自信の塊のような合衆国。係官の高飛車で威圧的な態度は合衆国そのもの?! 否、日本人旅行者の並んでいる列は比較的消化が早いのですが、それ以外の列に並んでしまうとなかなか縮まらないのです。多民族国家の合衆国。今でも自由を求める多くの外国人が遣って来る移民国家。時代によって移民入国の政策は強化と緩和を繰り返してきました。自然と入国審査は厳しくせざるを得ないのかもしれません。しかし、合衆国の入国審査で気分良く入国した記憶は余りありません。
空港から街へ向かうと前方には高層ビルが立ち並ぶ一帯があります。ダウンタウン(商業地区)です。ニューヨークのマンハッタン島の超高層ビルディング群には本当に興奮しました。「こんなものを造れるんだ」と。高層ビルは合衆国の文化(?)で、当時、欧州には未だマンハッタン島のようなビル群を構える地区は数少なかったのです。合衆国ではどの州都を訪れてもダウンタウンと言われる高層ビル群の立ち並ぶ地区を備えてます。欧州の教会建築のように合衆国の高層ビルディングも、聖と俗の違いはありますがそれなりに年季が入っていて合衆国の象徴のようでした。ともかく最初の頃、合衆国は驚きの連続でした。続く
帰国
今回の英国、ロンドンは久しぶりの添乗でした。市内は半分以上が英国籍以外と思われるほどの人が働いています。アラブ系、ロシア人の旅行者が多い都市に変わっていました。欧州のニューヨークに変身しています。
一日中、騒然とした雰囲気です。疲れました。以前の英国の街ではありません。
一日中、騒然とした雰囲気です。疲れました。以前の英国の街ではありません。
2011年7月7日木曜日
旅支度7
アメリカ合衆国に関わる話をもう少し。
八十五年頃からアメリカ合衆国の添乗が始まりました。七十年代に意識した最初の外国であり、大戦後の日本に多大な影響を与えたアメリカ合衆国。戦後の復興が奇跡と言われ、その後のアジアの国にも影響を与えた日本の復興は、その手本がアメリカ合衆国でした。今でも後を追い続けていますが・・・。
そのような憧れの国への添乗は、最初はワクワクしながら総てを肯定的にみていたように思います。戦後、日本が手本とした国ですから。
初めて合衆国の空港に着陸し降機する段になって、搭乗橋を使うわけでも無くシャトルバスでターミナルビルへ移動という事も無く、沖止めになった機体の扉口に搭乗橋を兼ねた鉄の固まりようのような大型バスが固定され乗客を収容しました。そして、そのままターミナルビルへだだっ広い空港敷地内を走り続けます。誇張ではなくだだっ広かったのです。その時、感じた素直な印象が「よくも親父の世代はこんな国と戦争をしたな」という事でした。ショックでした。「負けて当たり前」と。
二〇世紀、そのような合衆国に完膚なきまでに叩きのめされたのが日本ですが、その後、合衆国が関わったアジアの国々との戦争で勝利していません。もしかすると太平洋戦争が合衆国の最後の勝利だったのかもしれません。続く
八十五年頃からアメリカ合衆国の添乗が始まりました。七十年代に意識した最初の外国であり、大戦後の日本に多大な影響を与えたアメリカ合衆国。戦後の復興が奇跡と言われ、その後のアジアの国にも影響を与えた日本の復興は、その手本がアメリカ合衆国でした。今でも後を追い続けていますが・・・。
そのような憧れの国への添乗は、最初はワクワクしながら総てを肯定的にみていたように思います。戦後、日本が手本とした国ですから。
初めて合衆国の空港に着陸し降機する段になって、搭乗橋を使うわけでも無くシャトルバスでターミナルビルへ移動という事も無く、沖止めになった機体の扉口に搭乗橋を兼ねた鉄の固まりようのような大型バスが固定され乗客を収容しました。そして、そのままターミナルビルへだだっ広い空港敷地内を走り続けます。誇張ではなくだだっ広かったのです。その時、感じた素直な印象が「よくも親父の世代はこんな国と戦争をしたな」という事でした。ショックでした。「負けて当たり前」と。
二〇世紀、そのような合衆国に完膚なきまでに叩きのめされたのが日本ですが、その後、合衆国が関わったアジアの国々との戦争で勝利していません。もしかすると太平洋戦争が合衆国の最後の勝利だったのかもしれません。続く
2011年7月5日火曜日
ヒルトン ロンドン ドックランズ
今回の上記ホテルはロンドンのドックランズ地区にあるホテル。中心地から外れて、最寄地下鉄駅にもホテルの無料シャトルを利用する事になります。客層もグループが多く利用しており、恐らく、値段も手ごろなホテルのようです。ロンドンは来年のオリッピックに備えて各所で工事が行われ、通常の朝夕の渋滞も重なりバスを使う観光では時間に余裕を持って動く必要があります。
ホテルのインターネット利用は有料。24時間利用で£15。客室の有線とロビー階・バーコーナーの無線がひとつのID、パスワードで利用可能です。
ホテルのインターネット利用は有料。24時間利用で£15。客室の有線とロビー階・バーコーナーの無線がひとつのID、パスワードで利用可能です。
2011年7月2日土曜日
旅支度4
一九八三年、本格的に海外添乗が始まりました。日本経済、バブルの真っ只中です。海外旅行者数も年々増え続け、添乗は年間二百日以上を数える年が続きました。仕事も有り、気分も高揚している時にはなかなか先の事は見えないようです。単に景気に乗せられて仕事をしていた感じがします。そのような浮かれた時代の添乗の様子です。
一九七二年、日中国交正常化そして七八年平和友好条約締結後、日本からの人、物の中国への流れが活発になって旅行者も増えていました。お客様の中には日中戦争中、大陸で過ごして戦後初めての里帰りのような思いの方もいて好評でしたが、中華人民共和国への添乗は、行くたびに現地ガイドと言い争いになる事が多くて大変でした。何故なら、彼らの仕事に対する考え方、遣り方が理解できず、こちらの事情を説明して彼らにも理解してもらえなかったのです。仕事に対する考え方が違いました。受け入れも国営旅行会社が一社だけです。競争も無く、総てが役所仕事のような遣り方ですからサービスも通り一遍になります。現地に着くまでホテルも判らない、翌日の日程を聞いても当日には平気で変更になっていたりと、仕事以前の問題で現地ガイドとよく口論になりました。
八十三年頃、中華人民共和国にもオリエントエクスプレスといわれる列車が有りました。その列車で、日本から三百名ほどの旅行者と一緒に中国周遊のツアーの添乗をした際、最終地の上海駅に到着すると三百名が乗車する迎えのバスが一台見当たりません。同行の中国人ガイドも事情が判らない。責任者に状況を調べるように言っても「待ってくれ」の一点張りで埒が明かない。現地ガイドもガイドとして業務を依頼されているので責任範囲外ということです。「お客様」という概念がない頃でした。その時、ちょっとした言葉の行き違いで現地ガイドと口論になりました。北京大学の医学部を出て医者になれる二十歳代後半の男性でしたが、医者として空きが無く致し方なくガイドを遣っていました。そんな彼の発した一言には驚きました。「戦争中の日本人は大陸で何をしたんだ!これぐらいの事、我慢しろ!」と。戦後生まれの彼にも戦中の日本人の様子が親の代から引き継がれていました。
平和友好条約締結後、日本からたくさんの様々な規模の企業が進出しています。直後に進出した中小企業の経営者には途中撤退した企業の方もいました。もう、中国はこりごりとの事。中国人との共同事業でしか事業が起こせない状況で日本側からの資本、技術が投下され、ある段階になると後は中国側だけで事業が行われたようです。中国側にするとごく当たり前の行為なのかもしれませんが・・・。
中国人になりきらないと付き合うには難しい国です。続く。
一九七二年、日中国交正常化そして七八年平和友好条約締結後、日本からの人、物の中国への流れが活発になって旅行者も増えていました。お客様の中には日中戦争中、大陸で過ごして戦後初めての里帰りのような思いの方もいて好評でしたが、中華人民共和国への添乗は、行くたびに現地ガイドと言い争いになる事が多くて大変でした。何故なら、彼らの仕事に対する考え方、遣り方が理解できず、こちらの事情を説明して彼らにも理解してもらえなかったのです。仕事に対する考え方が違いました。受け入れも国営旅行会社が一社だけです。競争も無く、総てが役所仕事のような遣り方ですからサービスも通り一遍になります。現地に着くまでホテルも判らない、翌日の日程を聞いても当日には平気で変更になっていたりと、仕事以前の問題で現地ガイドとよく口論になりました。
八十三年頃、中華人民共和国にもオリエントエクスプレスといわれる列車が有りました。その列車で、日本から三百名ほどの旅行者と一緒に中国周遊のツアーの添乗をした際、最終地の上海駅に到着すると三百名が乗車する迎えのバスが一台見当たりません。同行の中国人ガイドも事情が判らない。責任者に状況を調べるように言っても「待ってくれ」の一点張りで埒が明かない。現地ガイドもガイドとして業務を依頼されているので責任範囲外ということです。「お客様」という概念がない頃でした。その時、ちょっとした言葉の行き違いで現地ガイドと口論になりました。北京大学の医学部を出て医者になれる二十歳代後半の男性でしたが、医者として空きが無く致し方なくガイドを遣っていました。そんな彼の発した一言には驚きました。「戦争中の日本人は大陸で何をしたんだ!これぐらいの事、我慢しろ!」と。戦後生まれの彼にも戦中の日本人の様子が親の代から引き継がれていました。
平和友好条約締結後、日本からたくさんの様々な規模の企業が進出しています。直後に進出した中小企業の経営者には途中撤退した企業の方もいました。もう、中国はこりごりとの事。中国人との共同事業でしか事業が起こせない状況で日本側からの資本、技術が投下され、ある段階になると後は中国側だけで事業が行われたようです。中国側にするとごく当たり前の行為なのかもしれませんが・・・。
中国人になりきらないと付き合うには難しい国です。続く。
登録:
投稿 (Atom)