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2013年1月10日木曜日

フランチェスコ 組織

  スイス紙幣の100フランのデザインはアルベルト・ジャコメッティの肖像と、彼の作品「歩く男」が描かれています。実存主義的といわれる彼の作品、彫刻はその像が極端に細くなっているものが多いです。まるで、削って削って無駄を削ぎ落として、行きついた先が彼の作品のかたちのようです。歩く、という単純な行為。その行為が主で、行為者は従。行為が無ければ人も存在しない。ジャコメッティのかたち。

フランチェスコは亡くなって2年後には列聖されています。聖人を決めるのは法王庁です。多くは1,2世紀、長い年月を掛けて決定される事項ですが、フランチェスコの列聖は例外かもしれません。否、彼の後半生を観ると法王が列聖したものわかります。しかし、恐らく、フランチェスコの思いとは違ったと思います。晩年、フランチェスコの思いとはズレが生じる兄弟会からも距離を置き、改悛した当初の修道生活に入ったフランチェスコ。己の思いを貫きます。
フランチェスコの下に集まり、増え続けた兄弟。彼の思いとは別のところに兄弟が道を創りはじめました。フランチェスコにもどうする事も出来ません。所有せず、自己主張しないフランチェスコの、キリストと共に在る方法は、最初に戻る事だったようです。フランチェスコにとって兄弟会も、大聖堂も、列聖も必要ない事です。
 
 

 大切なものは一つだけ。他には何も要らないという事はどれほど心安らかに、強くなれるでしょう。

2013年1月6日日曜日

フランチェスコ 学問

 身の周りで見る事のできるかたちは、その多くが人間の手による造形。
自然の生命の歩みより遥かに早い人間社会の発展は、進化した科学、学問のおかげでしょうか。
森羅万象の生き物の中で人間社会の歩みだけが異常な速さです。
物質的な豊かさを得ると同時に失ったものも多い筈です。
 

 フランチェスコは学問とは距離をおきました。否定はしていません。
彼の兄弟にはさまざな階層の人々が集まりました。知識という点ではフランチェスコを超える兄弟もいたようです。
しかし何度も書きますが、磔刑のキリストと聖書が生きている証のフランチェスコにとって、知識は取るに足らない事でした。場合によっては害になると。そのような学識者を兄弟に受け入れたのも、おそらく、彼らの心根を理解していたからでしょうか。フランチェスコの思いと実践が多くの兄弟、姉妹を集めました。
 

 ハーバード大学は、元は神学校として始まりました。清教徒の指導者を育成するために造られたUSAで最も古い、USAの頭脳のような大学です。官民一体となったUSAの大学。
USAは世界を牽引して行く力を備えている知識を有しているようですが、牽引して行く先には?
 「労働は神から与えられた天職」という教説とは裏腹の現在の経済社会。人々にとって労働は神と繫がる行為であるはずですが、天職である労働を簡単に取り上げる企業で成り立ってしまった経済社会。労働者ではない、労働しない人々の利益が優先される経済社会が出来上がっています。
 カルヴァンは、「天国に召される人間は予め決められている」という予定説も唱えました。
当時のカルヴァン派の信者にとってはパニックだったでしょう。果たして、己は天国に行けるか、否か。
 知る方法は?
労働し、金を得て財を成す。成功する事が救われる事になります。貧しいことは神の救いの無い姿になりました。
USAは、神の救いから漏れないように、ひたすら豊かで有り続けなくてはなりません。
 

 これからも富を求めて走り続けます。
 

2013年1月4日金曜日

フランチェスコ 労働

正月四日、仕事始めの様子が報道されました。
政権が代わってバラ色を予感させるような雰囲気です。民主党の「み」の字も聞かなくなりました。
自民党に代われば総て良くなりそうで、皆、浮足立っています。いつか来た道のように思えますが・・・。
 フランチェスコは働く事を兄弟たちに勧めます。自給自足の生活です。しかし、所有は禁じています。
彼の生きている証は磔刑のキリストと聖書でしたので、その為に、生きていく最低限のものがあれば充分でした。
自ら働き、返しは金以外のものを得ています。働く機会がなければ托鉢です。
所有すれば守らなくてはならない。守るために争いが起こる。争いを無くすために所有せず。シンプルです。
 総てが聖書のキリストと共に在る事で、日々の時間が流れています。
 
 フランチェスコは学問とは距離を置きます。世俗の学問は必要ないと考えました。
現代の経済はプロテスタント経済の側面があります。
カルヴァンは「労働は神から与えられた天職」だと説きました。
プロテスタントは都市型のキリスト教として商人、職人、新興貴族に支持層を得ていきます。
教会を否定し、聖書を唯一の拠り所としたプロテスタント信仰は、
文字の読めない農民より教育の機会を持った都市市民に拡がっていきました。
フランチェスコもプロテスタントも聖書を生きている証、拠り所とした点では同じですが、
フランチェスコは、聖書のキリストをそのまま生きようとしました。
プロテスタントは聖書をいろいろと解釈し、世俗の学問の対象にしてしまいました。
結果、様々な教派を生み出し、学問は深化していきます。
「労働」で得た対価(金)も神から認められたもののように考えられているようです。
 

 カルヴァンにお墨付きを貰った「労働」は新世界で大輪を咲かせていきます。
 

2013年1月2日水曜日

フランチェスコ 自由


自由が破壊と創造を生み出す社会には伝統は育まれません。
自由は新しいもの、珍奇なものを生み出す能力においては群を抜いています。
廃れるのも早い。経済において際立ちます。しかし、そのような自由の国、USAにも良き(?)時代が有りました。
現代のUSAの発端は新教の自由を求めた清教徒による国造りです。
母国での自分達の信仰が守れないという事で新世界を求めました。
カルヴァン的な信仰を基礎にする清教徒たちの信仰は、共同体の自律的な自由による信仰生活の中で行われます。
「丘の上の町」をつくるという理想に燃えた移民当初の信仰は、ジョン・ウィスロップなどの共同体の柱になる人物が現れ移民をまとめています。統制がとれています。17世紀当初のUSA建国前の状況は明らかに現代のUSAとは違います。400年ほど前の状況と変わってきて当たり前ですが、当時も現代も自由を満喫しているのは同じ人間です。
共同体の清教徒が自律的に享受してきた自由と、ただ単に、自由を求める現代では雲泥の差です。
フランチェスコは、下世話になりますが、ストイックに本物の自由を求めたのだと思います。

2013年1月1日火曜日

聖フランチェスコ

フランチェスコの清貧は現代社会とは真逆になります。
そのような精神性を生み、育んできたフランチェスコとフランチェスコ会。
現代のフランチェスコ会がどれだけフランチェスコの思いを引き継いでいるか判りませんが、
現代のグローバル化された経済を牽引するUSAの思いとは真逆のフランチェスコの思い。
西欧の12世紀、商人が活躍し始め貨幣経済が規模を拡大していきます。
フランチェスコ自身、裕福な商家に生まれました。
裕福故に送れた放蕩生活の前半生から、修道者としての信仰生活に入った後半生は、真逆の人生です。
修道者としてのフランチェスコは、あらゆるものの所有を否定しました。
お金は糞と同じだと忌み嫌いました。
清貧で居る事が救われる手段であり、所有欲はあらゆる争いの種であるという思いは、
現代の世相を如実に現しています。
現代の自由は、破壊と創造を生み出し、破壊と創造に便乗した自由の国がますます富みを蓄え、地球規模で貧富の差が生み出されています。自由が、あたかも普遍的な真理のように扱われている現代と、真の自由を求めたフランチェスコの思いをもう一度見直す事も必要かもしれません。
フランチェスコが自然、森羅万象を神の創造した人間の兄弟と観たのは、神の意思を感じ取れたからでしょう。
そのような自然を、現代の経済社会は傍若無人に荒らしまわっています。
 どこへ行きますか?

2012年2月21日火曜日

USA 信教の自由

20日の産経新聞「環境 異見」にワシントンポストの論評が有りました。 訪米中の中国国家副主席、習近習との会談においてオバマ政権からの注文が極端に少なかった、との論評です。 問題は人権問題。信教の自由を持ち出し、チベットでは人びとが中国政府から迫害され人権が無い。何故、会談で問題にしなかったのか?と。 400年ほど前に旧大陸から清教徒が信教の自由を求め新大陸に渡っています。その後も、信教の自由を求めた多くの移民が新大陸を目指しました。 信教の自由はUSAにとって国是のような概念です。論評にも出るほどですから、未だに生き続けているようです。 しかし、論評の読後感には違和感が残りました。 旧大陸で迫害されたキリスト教の信仰者が信教の自由を求めた場所が新大陸。 現在でもUSAはそのような国です。多くの人びとを受け入れています。チベットで信教の自由が無い人びとを受け入れる、と言うのであれば 論評も腑に落ちますが、チベットの人権問題と信教の自由の関連付けに無理があります。本来の信教の自由の概念が拡大解釈されて、 あらゆる国に適用されては堪りません。信仰の対象が凡ゆるもの(世俗の言葉、概念)に拡がり、聖俗の垣根がますます低くなったUSAの信教の自由。 USAの自負、合衆国人の思い込みが、仕舞いにはUSAを信仰しろ、と言う具合になりそうで気分の悪い論評でした。

2012年2月10日金曜日

旅支度69

一方、清教徒の宗教的な移民とは別に、コロンブスの新大陸発見(西インド諸島)以降、新世界はポルトガルやスペイン、オランダそしてフランス等の探検家にとっては垂涎の地になっていました。胡椒、毛皮、金や銀などを求める探検が一攫千金を生めば、それは次第に国を動かす事業に変わっていきます。そして、各国の利害のぶつかり合いは、国家間の政策が旧大陸と新大陸で連動した動きとして捉えられるていきます。  英国の探検家でエリザベス一世の寵臣として知られた、ウォルター・ローリーは英国で最初の新大陸植民地を築きました。  一五八四年、二隻の船で新大陸の東海岸を探検しています。カナリア諸島とプエルトリコに立ち寄り、フロリダ海峡を北上してカロライナの浅瀬を通り抜ける水路を発見、レロアノーク島に辿りついています。そこで、現場周辺を六週間かけて探検した結果、植民地として最適な場所であるという結論に達します。帰国後、議会に諮られた植民地計画は、翌年には科学的な装備を備えた大がかりな探検隊を編成させました。そしてその後も、新大陸での利権を得るために遠征隊が出されましたが、間近に迫ったスペインとの戦いで植民地事業に手が回らなくなったこと、遠征隊は清教徒のような集団ではなく、現地では原住民との衝突を起こし、結局、ロアノーク植民地は失敗に終わりました。 しかし、その後も新世界への進出は止むことなく続きます。なぜなら、新大陸の利害はそのまま旧大陸の利害に関係したからです。敵対するカトリックのスペインをアルマダ海戦で破った事は、プロテスタントの勝利を意味するものでもありました。当時のイギリスの船乗りの多くは、スペインの覇権に抵抗する強い宗教的な動機を持つ厳格なカルヴァン主義者が多かったのです。カルヴァンの「二重予定説」は、神に救われる側としてのイギリス、地獄に落ちる側のスペインと言う図式で、イギリス人を奮い立たせることになりました。続く

2011年12月17日土曜日

旅支度61

スイスのジュネーブでは、ジャン・カルヴァンが彼の教説を実行していました。聖書に基づいたカルヴァンの教説の実践は厳格をきわめます。当初、ジュネーブ市民は余りの厳格さに拒否反応を示し、カルヴァンを追放します。カルヴァンは政教一致の市民社会を構築しようとしていました。規律正しい、秩序ある社会です。その為に、規律に違反したり、秩序を乱す市民には厳罰で対処しました。  カルヴァンの求めた社会は、プロテスタント市民の信仰共同体であり、信仰を社会全体に行き渡らせ市民を信仰共同体の一員として迎える為には厳格な規律や秩序が必要でした。それまで、世俗化した信仰生活に慣れ親しんだ市民にとって、カルヴァンの要求は厳しいものでした。そして、カルヴァン追放。しかし、カルヴァンがジュネーブを追放されていた時期の道徳的退廃が、再びカルヴァンを必要としました。 中世の小太りした修道僧のだらけた社会から、禁欲的で精悍な修道士のような社会へ。まるで、ベネディクト、シトー会修道院のような社会の構築をジュネーブで試みていたかのようです。続く

2011年12月10日土曜日

旅支度60

ルターの宗教改革は、時間が経つにつれて徐々にカルヴァンの過激さとは違う面が出てきました。聖書に信仰の拠りどころを求める点では同じでしたが、社会構造を変えてまでの改革をルターは求めていませんでした。 あくまで聖職者と言う身分に立った改革は、農民が求めた改革に断固反対し弾圧する側に立ちます。ルターにとって農民の運動は一揆と同じでした。ルターは農民を単に「働く人」と捉えます。時代は、ゴシックと言う教会が中心となって支えた社会の様相を変え、人間中心の社会を迎えようとしていましたが、ルターの改革は農民を蚊帳の外に置いた都市型の宗教改革でした。改革運動の発生した都市では従来の教会が破壊される事態も発生します。当初、聖書で述べられていない事象を総て否定した改革運動は苛烈を極めます。ドイツ諸邦ではそのような運動から一線を引くようになりました。ルターは急激な社会構造の変化を否定し、都市と貴族領主が選択する宗派がそれぞれの領地で決められました。カトリックかプロテスタント(ルター派)か。  最終的に、一六四八年のヴェストファーレン条約はカトリック、プロテスタントが相互の立場を尊重するという、三十年戦争後の新しい西欧の秩序にもなりました。  現在でもこの十七世紀の名残があります。ドイツでは、大まかに言って北部州はプロテスタント、南部州がカトリックになっています。  ドイツのバイエルン州を南北に走る道路がロマンティック街道です。距離は約三百七十キロ。北のヴュルツブルグから南のフッセンまで、距離は約三百七十キロ。ヴュルツブルグから七十キロほど南下したところにローテンブルグ・オブ・デア・タウバーと言う都市があります。三十年戦争の舞台になりました。史上初の世界大戦が三十年の長きに亘って欧州の国々を巻き込み、新旧両派がドイツを主要舞台に繰りひろげた戦争です。街道の都市も両派に分かれ、旧教信奉の都市が新教側の手に落ちれば、悪の温床のような教会では聖像、聖画は壊され、金目の物が持ち去られました。続く

2011年11月21日月曜日

旅支度57

近 世  現在、カトリックの国々では集落の中に聖堂の建物を遠望できますが、十六世紀以降、プロテスタントに改宗した国々、地域を訪れると集落の中に埋もれるように建つ教会を目にします。  プロテスタントが、「神の住まい」と言われる聖堂を否定したことも関係しているかもしれません。宗教改革当時、プロテスタントは旧教となるカトリックの信仰のあり方を否定します。 そのプロテスタント(宗教改革)運動を起こしたのがドイツのマルティン・ルターです。新しい改革は、それまでキリスト社会を支えたゴシックの終焉も招きました。  キリスト教は常に異端を生み出してきた歴史と言えます。信仰という人間の内面と関わる行為を生み出した宗教が背負った重い荷物かもしれません。時代や場所が変わるといろいろな宗教、宗派を生み出していきます。  ベネディクト、クリュニー、シトー、フランシスコ、ドミニコ会などの修道会は自発的に起こっています。彼らの活動(実践)はバチカンの意に叶っていたのか、彼らの活動に障害はありませんでした。未だバチカンもそれほど強力ではなく、政治と宗教が両輪となって治まっていた社会。社会が複雑でなかったことも活動を容易にしたのかもしれません。彼らの活動は、純粋にキリストや使徒と共に在ることを求めた活動であり、世俗社会とは一線を画していました。個人の思いが修道院を創設させる一方で、聖書という同じ原典を共有しながら、時代が変わり社会状況も変化すると別の見かたが生じていました。続く

2011年11月19日土曜日

旅支度56

しかし一方で、聖職者と国王、貴族の反目は続き、十四世紀には英仏間で百年戦争が勃発、ペストの流行によって欧州の人口は減少します。世俗化した教会は、世俗の出来事と深く関わりを持つようになっており、世俗の負の影響も避けられませんでした。ゴシック様式の教会が表すように教会と世俗社会が作り上げた社会は西欧中に拡がり、その繁栄振りを見せつけましたが、次第に歪が生じていたのです。教会は、いつの間にか「戦う人」「働く人」を「祈る人」(教会)の為にあると考え、行動を続けた結果、次第に社会を支えていた柱を腐らせていきます。 「カノッサの屈辱」といわれる事件以降、イタリアの諸勢力を巻き込んで皇帝側、法王側に分かれた聖俗入り乱れての権力闘争が続きます。フランスでは国王が国内に法王庁を作り独自の法王を起てます。そのような混沌とした時代が続き、バチカンは社会を管理できない状態になっていました。そして時代は、「祈る人」の中から社会の柱であるバチカン(法王)の再生を望み、行動を起こす聖職者を現します。それは、バチカンにとって世俗との争いに加えて教会内部での争いに対処しなくてはならない、新しい時代に入っていくことを意味していました。プロテスタントの登場です。続く

2011年11月2日水曜日

旅支度51

 中世の西欧では社会が身分で考えられました。「祈る人」「戦う人」「働く人」によって社会が支えられ、教会もそれらの身分で成り立つ社会を理想としました。それぞれの身分でそれぞれの役割を果たす社会。しかし、教会の理想社会は長続きしませんでした。本来「戦う人」が持つ剣を「祈る人」が手にした時、争いは避けられませんでした。  イタリア・カノッサで事件が起こります。一〇七六年、神聖ローマ皇帝ハインリッヒ四世が教皇グレゴリウス七世によって破門されました。理由は皇帝による「聖職者叙任」です。皇帝、国王が聖職者を叙任することはフランク王国時代からの慣習でしたが、グレゴリウスはその権限に異を唱えます。  八〇〇年、教皇レオ三世はカール大帝を西ローマ皇帝として戴冠していました。教皇による戴冠式は、その後、世俗社会における権力者の世俗統治のお墨付きを教皇(神の代理)から得た事を意味します。その時の経緯が、教皇を皇帝の上だとする教皇至上主義の支えになっています。しかし、次第に皇帝側に権力が移り、帝国諸侯の手中にあった教会では聖職売買や司祭の妻帯等、教会法に関わる問題を抱え、改革の必要に迫られていました。教皇は教会を本来の姿に戻そうと試みたのです。しかし、カノッサの事件以降、教皇と皇帝の確執が長く続くことになります。続く 

2011年10月29日土曜日

旅支度50

 西欧中世の中心的な役割を果たしたカロリング朝時代は、キリスト教と政治が両輪となって秩序ある安定した社会を作り上げていました。しかし、その社会は聖職者(祈る人)と貴族(戦う人)の社会であり、未だ農民(働く人)はキリスト教とは縁遠い存在でした。理想の「神の国」を作るためにカール大帝は王国内に学校や教会、修道院を造り、管理者としての聖職者を養成します。王国内の聖職者の叙任は貴族によって行われましたが、貴族の意向が反映された制度は後世の聖職者と貴族の間に禍を残すことになります。  中世、知識吸収の機会を得られたのは聖職者ぐらいで、多くの人が読み書きもできない状況でした。しかし、すべての聖職者が読み書きできたわけではなく司教の手足となって活動した助祭には読み書きができず、そのような彼らが教会の聖務を務めました。それまでの「祈る人」の為のキリスト教とは違う世俗的な聖職者によるキリスト教が布教されるようになります。利に聡い聖職者の活動は次第に世俗の目の敵として捉えられるようになります。身分の違いを利用し教会法に触れるような事を遣る聖職者に市民たちが異を唱えるようになりました。 市壁内の教会が城砦を備えた建物になったのは、外敵への備えだけなく、内なる敵に対しての防御でもありました。  世俗化された教会は、次第に内部の浄化も図りながら本来のあるべき姿のキリスト教を求めることになります。 宗教が戦争を引き起こすと考えがちな日本人にとって城砦のような構えの教会には違和感があります。続く

2011年10月20日木曜日

旅支度49

  十三世紀、修道院教会が街に現われます。人里離れた場所に居たキリストが街に現われます。托鉢修道会といわれれるドミニコ会やフランシスコ会はキリストや使徒の精神を市民に伝える、都市型修道会と言えます。特にフランシスコ会の修道士はキリストや使徒の精神を「実践」で伝えます。 利に聡い市民にとって、「清貧」を旨とするフランシスコ会修道士の「実践」は目新しい修道士の出現、初めて身近に感じるキリスト教だったと思います。ドミニコ会と違って下層市民への布教を行ったフランシスコ会は、フランシスコ存命中から多くの信徒を集めました。イタリアのアッシジはフランシスコ会の総本山です。聖堂内には存命中のフランシスコの実践の様子が、ゴッシク期からルネッサンス期への過渡期に現れた画家ジョットの壁画として残っています。 街自体は城砦都市のようです。 街の修道院教会は城と同じ役目を果たしました。有事の際は市民の避難場所になっています。街自体も市壁に囲まれた防御用の構造になっていました。 街の要所に築かれた教会は市壁外の外敵の襲来をいち早く発見し、街の様子も十分に観ることができました。市民であった職人や商人は、「働く人」として農民よりも経済力をつけていきます。彼らは一つにまとまることで、一層、強力になっていきます。職人、商人の職業ごとの組合(ツンフト・ギルド)が作られ、組合員の生活や利益を守っていきます。そのような市民が住む街は次第に都市しての機能を備え、自治都市として聖職者や貴族に対しても発言するようになります。続く

2011年10月9日日曜日

旅支度47

  一二世紀、西欧社会は変化していきます。それまで「戦う人」「祈る人」が主要な役割を果たしてきた社会が変わりつつありました。「働く人」たちの多くが農民だった社会に、新しい「働く人」たちが現われます。商人や職人です。彼らが農民と関わり西欧社会を形成していきます。  多くの人たちが農民として働いていましたが、その労働場所に技術革新が起こったのがこの世紀です。当時、ライン河とロワール河の間が農業の先進地帯でしたが、そこはフランク族がライン河を越えて居住した辺りでした。鬱蒼とした原生林の中に農家が点在して、農作業も個々の農家で行われていましたが、技術革新に伴って農家の集村化も始まります。治金術の進歩で鉄製の農器具(犂や斧、鉈)が開発されます。鬱蒼とした森は分厚い腐葉土に覆われ、それまでの木製の犂では表面の土しか掘り起こせず、耕作地を造ろうにも大変な作業でした。しかも、農家の周りは森で、木の伐採から始めなければなりませんでした。鉄製農器具の出現によって、開墾作業が大幅に改善されました。森の中に個々にあった農家は開墾によって農地を拡げていきました。拡大した耕地を耕す家畜(馬)の普及や水車の利用、広い農地を個々で管理するより共同で管理するようになって村落共同体がうまれます。農地の共同管理で三圃農法が始まるのもこの時代です。十九世紀まで続いた農法ですが、冬畑、夏畑、休耕地と三つに分けて、季節ごとに適した作物の植付けが行われました。休耕地では家畜を放牧させながら次の作付のために養生させます。この農法により穀物生産高が飛躍的に増えました。  村は、二、三十戸ほどの農家が教会堂を中心にまとまります。村は柵で囲まれ、出入り口が三か所ほど設けられ、夜になると閉められました。その村の周りには穀物畑や葡萄畑、休耕地(放牧地)が拡がり、その外側に森が位置する配置になっていました。  これらの風景は現在でも欧州で目にすることができます。飛行機から下界を見ると、パッチワークのように拡がる耕作地が見られます。高い山のない広々とした平地の中に集落している村や町と濃い緑の森が点在しているのが欧州の広々とした風景です。おそらく、中世から変わらない風景です。続く

2011年10月7日金曜日

旅支度46

 「祈り」と共に「労働」を重視し、修道生活の糧は自ら生産するという自活が、人里離れた土地の開墾作業によって修道生活のひとつのかたちになっていました。現在でもシトー派の修道生活が行われていた場所を訪れると、周りには修道院以外に何も無く、敷地内に川が流れているか或いは水を引いてこれるような場所に修道院が在りました。切り開かれた森には畑やブドウ園が造られます。修道院の典礼で使われるパンと赤ワインは必要なものでした。パンを焼く釜、厨房、薬草が作られ、家畜が飼われ、作業に必要な器具などを作る各種工房も造られます。それらは総て修道士の「労働」から生まれたものです。聖書に基ずく修道生活において必要なものが「労働」から生まれました。   修道院が開墾農地、施設の規模を拡大していくにつれて、そこには村を思わせる景色が広がっていきます。 「労働」は重要な修道のひとつでしたが、労働に専念すればするほど生産は高まり、修道院内で消費されない家畜などは市場に出され、ブドウ栽培も、ブルゴーニュ、スイスからラインランドの中央ドイツにかけて修道院の数と共に拡がっていきます。修道院に富が蓄積されていきました。そして、蓄積された富は本来の意味を失い利潤を追求する修道院も現われるようになります。 シトー会の柱であったベルナルドの死後、本来の「労働」の意味と「労働」の生み出す「世俗的」な利潤に囚われた修道院はそのあり方について問題解決の出口を探しますが、シトー会当初の姿に帰ることはなく、会も次第に衰退していきます。  修道院の活動が院内の自給自足の規模を超えて世俗へ拡がった時、「労働」という行為が生み出す結果は、人間(聖職者)もその組織も変質させてしまうようです。 修道院が重要な役割を果たした中世の世俗社会は修道院が発信する情報、技術を手本に発展を遂げていきます。続く

旅支度45

 中世    フランク王国が分割統治され、カロリング朝の国王も途絶えると、諸侯が台頭してきました。西フランク王国にノルマン公国が誕生し、東フランク王国ではフランケン公がザクセン朝を興します。東からマジャール人やサラセン人が西欧への侵入を試みていました。そのような時代に、クリュニー会やシトー会の台頭があり多くの修道士を集めています。世の不安が多くの人を修道院に呼び集めたのかもしれません。混乱の様相を呈してきた世俗社会とは一線を画した修道会は着実に大きな勢力になっていきました。そのような時代においてキリスト教は聖俗の精神的支柱になっています。     本来の姿を見失ったクリュニー会に対して、クリュニー会修道士モレーヌ・ロベルトは、聖ベネディクト会則の厳格な実践の場としてシトー会を創設しました。「祈り」「瞑想」に重きを置いていたクリュニー会に対して、「働く」というベネディクト会本来の修道士の会則の実践を行いました。当初、厳格すぎるシトー会には人々は集まりませんでした。「祈り、瞑想」の実践で修道生活を送り、修道生活に必要な糧は王や貴族が寄進していました。そのような生活に慣れ親しむと人々は簡単には抜け出せません。しかし、シトー会にベルナールという人物が加わり、一一一五年、クレルボーに活動の重要な拠点となる修道院が造られると、シトー会の影響はフランス国内に限らず西欧に拡がっていきました。彫刻や美術品による装飾は廃止され清貧が遵守されたのもシトー会の特徴です。続く

2011年10月6日木曜日

旅支度44

 フランク王国ではキリスト教の理念が大きな柱として政教一致の統治が行われました。国を統治する上で、頼るべきしっかりした柱としてキリスト教が在りました。ゲルマン民族にとってローマ文化=キリスト教は文明であり国造りには最適だったのです。一概に現代と比較は出来ませんが、多くの価値観を持ち、太く、しっかりした精神的支柱の無くなったような現代は、実は負担の大きな社会かもしれません。柱の無くなった(必要としなくなった)建物は一人ひとりがレンガとなって建物を支えなければなりません。         カール大帝の死後、広大な王国の領土は東フランク、中フランク、西フランクの三王国に分割されました。現在のドイツ、イタリアそしてフランスにあたります。一〇世紀、カロリング朝の家系が途絶えると、三国はそれぞれの道を歩み始めます。     フランク族が最初に住みついた地域はライン河とムース河が交差する辺りでした。現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルグの辺りです。現代、世界でもう一つの柱になろうと目論んでいるEU(欧州連合)。その原加盟国がオランダ、ベルギー、ルクセンブルグ、そしてカール大帝フランク王国時代に領土となった、ドイツ、イタリア、フランスに相当します。まるで歴史を繰り返すような動きは面白いです。二〇〇九年現在、加盟国は二七カ国となり西欧から東欧、バチカン半島にまで拡大されていますが、これまでのところ加盟国のすべてがキリスト教信仰が行われてきた国々です。続く

2011年10月4日火曜日

旅支度43

 ローマ帝国分裂後、古代都市ローマは西ゴート族やヴェンダル族等の侵入、略奪により政治機能を失い首都をラベンナへ移していました。そのような東ローマ帝国の影響を徐々に排除して西ローマ帝国内でのキリスト教(ローマ教会)の権力の回復を果たせた要因の一つはカール大帝の出現でした。 バチカンのサン・ピエトロ寺院の前室(廊下)の両端にコンスタンティヌス大帝とカール大帝の騎馬像が建っています。皆さん、そこは素通りして直ぐに聖堂の中に入りますが、バチカンにとって二人は重要な人物です。  フランス、パリ郊外に在るベルサイユ宮殿はブルボン王朝のルイ十四世時代に隆盛を極めました。現在、宮殿は観光の目玉になっています。観光場所は二階部分の部屋とフランス式庭園です。観光での部屋巡りが終わって売店を通りすぎ、一階へ降りる階段の踊り場の先に別の広い部屋が有ります。そこにはフランスの歴史を物語る絵が展示されています。フランク族のクローヴィスから始まるフランスの歴史をご覧になれます。続く 

2011年10月1日土曜日

旅支度42

  八〇〇年のクリスマス、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂で教皇レオ三世は小ピピンの息子、カール大帝を「西ローマ皇帝」として戴冠しました。当初、カール大帝は西ローマ皇帝よりもフランク族の王としての立場を重視していましたが、次第に西ローマ皇帝として、また敬虔なキリスト教徒として活動します。古代ローマ帝国に匹敵する領土を有するフランク王国が、再び安定したキリスト教国を再興しました。カール大帝のキリスト教へ対する献身的な活動は、領土内に聖職者を養成する学校を興し、修道院、教会を増やしていきました。文化芸術にも力が注がれカロリングルネッサンスと言われる文化が華開きます。 ゲルマン民族の侵入によって荒廃したローマ帝国=キリスト社会がゲルマン民族の手によって再興されたのです。東ローマ皇帝に匹敵する権力を持ち、キリスト教の熱心な信奉者で、進んでキリスト教社会を建国しようとしていました。教皇には願ってもない人物でした。聖と俗の蜜月時代。政教一致の時代です。  ドイツ・アーヘンには、そのカール大帝が埋葬されている聖堂があります。八世紀末、当時としてはアルプス以北では最大のドーム型の宮廷教会が建てられました。これはゲルマン、ローマ・キリスト教の影響とビザンチン様式が取り入れられたカロリング芸術の傑作と言われます。西欧においてロマネスク様式の建築が現れる二世紀ほど前の建築物です。暗黒時代の中世に、フランク・カロリング朝は西欧文化の礎を築いたとも言えます。続く