2011年10月7日金曜日

旅支度45

 中世    フランク王国が分割統治され、カロリング朝の国王も途絶えると、諸侯が台頭してきました。西フランク王国にノルマン公国が誕生し、東フランク王国ではフランケン公がザクセン朝を興します。東からマジャール人やサラセン人が西欧への侵入を試みていました。そのような時代に、クリュニー会やシトー会の台頭があり多くの修道士を集めています。世の不安が多くの人を修道院に呼び集めたのかもしれません。混乱の様相を呈してきた世俗社会とは一線を画した修道会は着実に大きな勢力になっていきました。そのような時代においてキリスト教は聖俗の精神的支柱になっています。     本来の姿を見失ったクリュニー会に対して、クリュニー会修道士モレーヌ・ロベルトは、聖ベネディクト会則の厳格な実践の場としてシトー会を創設しました。「祈り」「瞑想」に重きを置いていたクリュニー会に対して、「働く」というベネディクト会本来の修道士の会則の実践を行いました。当初、厳格すぎるシトー会には人々は集まりませんでした。「祈り、瞑想」の実践で修道生活を送り、修道生活に必要な糧は王や貴族が寄進していました。そのような生活に慣れ親しむと人々は簡単には抜け出せません。しかし、シトー会にベルナールという人物が加わり、一一一五年、クレルボーに活動の重要な拠点となる修道院が造られると、シトー会の影響はフランス国内に限らず西欧に拡がっていきました。彫刻や美術品による装飾は廃止され清貧が遵守されたのもシトー会の特徴です。続く

0 件のコメント: