2011年10月9日日曜日

旅支度47

  一二世紀、西欧社会は変化していきます。それまで「戦う人」「祈る人」が主要な役割を果たしてきた社会が変わりつつありました。「働く人」たちの多くが農民だった社会に、新しい「働く人」たちが現われます。商人や職人です。彼らが農民と関わり西欧社会を形成していきます。  多くの人たちが農民として働いていましたが、その労働場所に技術革新が起こったのがこの世紀です。当時、ライン河とロワール河の間が農業の先進地帯でしたが、そこはフランク族がライン河を越えて居住した辺りでした。鬱蒼とした原生林の中に農家が点在して、農作業も個々の農家で行われていましたが、技術革新に伴って農家の集村化も始まります。治金術の進歩で鉄製の農器具(犂や斧、鉈)が開発されます。鬱蒼とした森は分厚い腐葉土に覆われ、それまでの木製の犂では表面の土しか掘り起こせず、耕作地を造ろうにも大変な作業でした。しかも、農家の周りは森で、木の伐採から始めなければなりませんでした。鉄製農器具の出現によって、開墾作業が大幅に改善されました。森の中に個々にあった農家は開墾によって農地を拡げていきました。拡大した耕地を耕す家畜(馬)の普及や水車の利用、広い農地を個々で管理するより共同で管理するようになって村落共同体がうまれます。農地の共同管理で三圃農法が始まるのもこの時代です。十九世紀まで続いた農法ですが、冬畑、夏畑、休耕地と三つに分けて、季節ごとに適した作物の植付けが行われました。休耕地では家畜を放牧させながら次の作付のために養生させます。この農法により穀物生産高が飛躍的に増えました。  村は、二、三十戸ほどの農家が教会堂を中心にまとまります。村は柵で囲まれ、出入り口が三か所ほど設けられ、夜になると閉められました。その村の周りには穀物畑や葡萄畑、休耕地(放牧地)が拡がり、その外側に森が位置する配置になっていました。  これらの風景は現在でも欧州で目にすることができます。飛行機から下界を見ると、パッチワークのように拡がる耕作地が見られます。高い山のない広々とした平地の中に集落している村や町と濃い緑の森が点在しているのが欧州の広々とした風景です。おそらく、中世から変わらない風景です。続く

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