2001年を境に激動の世界(私にとって)に入り込んでしまった今日この頃。1980年代、90年代,そして2000年代の私の旅のあとさきを伝えていきます。 http://tabinoatosaki333.at.webry.info/もご覧下さい。
2011年12月10日土曜日
旅支度60
ルターの宗教改革は、時間が経つにつれて徐々にカルヴァンの過激さとは違う面が出てきました。聖書に信仰の拠りどころを求める点では同じでしたが、社会構造を変えてまでの改革をルターは求めていませんでした。
あくまで聖職者と言う身分に立った改革は、農民が求めた改革に断固反対し弾圧する側に立ちます。ルターにとって農民の運動は一揆と同じでした。ルターは農民を単に「働く人」と捉えます。時代は、ゴシックと言う教会が中心となって支えた社会の様相を変え、人間中心の社会を迎えようとしていましたが、ルターの改革は農民を蚊帳の外に置いた都市型の宗教改革でした。改革運動の発生した都市では従来の教会が破壊される事態も発生します。当初、聖書で述べられていない事象を総て否定した改革運動は苛烈を極めます。ドイツ諸邦ではそのような運動から一線を引くようになりました。ルターは急激な社会構造の変化を否定し、都市と貴族領主が選択する宗派がそれぞれの領地で決められました。カトリックかプロテスタント(ルター派)か。
最終的に、一六四八年のヴェストファーレン条約はカトリック、プロテスタントが相互の立場を尊重するという、三十年戦争後の新しい西欧の秩序にもなりました。
現在でもこの十七世紀の名残があります。ドイツでは、大まかに言って北部州はプロテスタント、南部州がカトリックになっています。
ドイツのバイエルン州を南北に走る道路がロマンティック街道です。距離は約三百七十キロ。北のヴュルツブルグから南のフッセンまで、距離は約三百七十キロ。ヴュルツブルグから七十キロほど南下したところにローテンブルグ・オブ・デア・タウバーと言う都市があります。三十年戦争の舞台になりました。史上初の世界大戦が三十年の長きに亘って欧州の国々を巻き込み、新旧両派がドイツを主要舞台に繰りひろげた戦争です。街道の都市も両派に分かれ、旧教信奉の都市が新教側の手に落ちれば、悪の温床のような教会では聖像、聖画は壊され、金目の物が持ち去られました。続く
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