2001年を境に激動の世界(私にとって)に入り込んでしまった今日この頃。1980年代、90年代,そして2000年代の私の旅のあとさきを伝えていきます。 http://tabinoatosaki333.at.webry.info/もご覧下さい。
2011年10月7日金曜日
旅支度46
「祈り」と共に「労働」を重視し、修道生活の糧は自ら生産するという自活が、人里離れた土地の開墾作業によって修道生活のひとつのかたちになっていました。現在でもシトー派の修道生活が行われていた場所を訪れると、周りには修道院以外に何も無く、敷地内に川が流れているか或いは水を引いてこれるような場所に修道院が在りました。切り開かれた森には畑やブドウ園が造られます。修道院の典礼で使われるパンと赤ワインは必要なものでした。パンを焼く釜、厨房、薬草が作られ、家畜が飼われ、作業に必要な器具などを作る各種工房も造られます。それらは総て修道士の「労働」から生まれたものです。聖書に基ずく修道生活において必要なものが「労働」から生まれました。
修道院が開墾農地、施設の規模を拡大していくにつれて、そこには村を思わせる景色が広がっていきます。
「労働」は重要な修道のひとつでしたが、労働に専念すればするほど生産は高まり、修道院内で消費されない家畜などは市場に出され、ブドウ栽培も、ブルゴーニュ、スイスからラインランドの中央ドイツにかけて修道院の数と共に拡がっていきます。修道院に富が蓄積されていきました。そして、蓄積された富は本来の意味を失い利潤を追求する修道院も現われるようになります。
シトー会の柱であったベルナルドの死後、本来の「労働」の意味と「労働」の生み出す「世俗的」な利潤に囚われた修道院はそのあり方について問題解決の出口を探しますが、シトー会当初の姿に帰ることはなく、会も次第に衰退していきます。
修道院の活動が院内の自給自足の規模を超えて世俗へ拡がった時、「労働」という行為が生み出す結果は、人間(聖職者)もその組織も変質させてしまうようです。
修道院が重要な役割を果たした中世の世俗社会は修道院が発信する情報、技術を手本に発展を遂げていきます。続く
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