2011年8月1日月曜日

旅支度20


 七六年、カーター大統領の登場は、政治に対する不信、自信喪失で疲弊した合衆国の変化を求める合衆国国民の選択でした。
日本のマスコミも、大統領はジョージア州のピーナッツ農場の経営者で、それまでの大統領とは毛色の違う庶民的な人権大統領と報じました。何か遣ってくれそうな雰囲気の大統領として扱っていました。
 中東戦争を通して敵対関係にあったイスラエルとエジプトの間に平和条約の「キャンプデービッド合意」を締結させたのも人権大統領といわれたカーターです。当時のエジプトの大統領がサダト。副大統領がムバラクでした。それまで馴染みの無かったイスラム教の国々が日本のマスコミにも登場します。
七二年に始まったイラン革命において合衆国の支持したパーレビ国王がイラン国民によって追放されます。国民の支持したイスラム教のホメイニ師が最高指導者として政治を執ることになりました。
七九年、イランの合衆国大使館人質事件が発生します。逃亡後のパーレビ元国王を支援する合衆国に対して、イラン国内のシーア派の学生達が合衆国大使館を占拠する事件が起きました。事件解決までに一年以上を要する事態はカーターの指導力に疑問符が付けられることになります。
 カーターはニクソンのデタント、戦略兵器削減交渉を推し進めていましたが外交では失政を繰り返します。イラン革命やソ連のアフガニスタン侵攻を防げず、二期目の大統領選でレーガン大統領に敗れます。仲直りさせる事は上手かったようですが、力を背景にした外交は苦手だったようです。
 七十年代後半から歴史の舞台はアジアから中東・イスラム圏に移っていきます。続く

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