2011年7月31日日曜日

旅支度19

 アメリカ合衆国
 
 
 一九五四年にフランスのインドシナ政策を援助する為に、合衆国は軍隊をベトナムに派遣しました。ベトナム戦争は、第二次世界大戦終了後から一九八九年のベルリンの壁崩壊まで続いた冷戦の当事国である米ソの代理戦争とも言われました。先にも書きましたが、合衆国は私にとって最初の外国でした。当初はベトナム戦争の意味はわかりませんでしたが、時間が経つにつれて合衆国でも日本でも反戦デモが起こり、学生運動が激しくなっていく様子が連日、報道されるようになると僅かな疑問もわいていました。当事国でなくても間接的に関わっている戦争が次第に尋常なものでないと意識し始めたのだと思います。戦争自体が尋常でない行為だということを日米の反戦デモは確かに体を張って表現していたのです。
残念ながら戦争は、その後もどこかで繰り返えされます。合衆国が関わりながら・・・。
 合衆国はベトナムに約二〇年ほど関わりますが、ほとんど何も得ることなく撤退しています。一九七三年です。私が二十歳の時に終了した戦争ですので、メディアが流した戦争の様子は今でも憶えています。「枯れ葉剤の散布」、「ベトちゃん、ドクちゃん」「サイゴンでの処刑」の写真、「ボート・ピープル」等など。たくさんの記事を目にしました。     
 一九六三年、ケネディ大統領の暗殺事件では日米初のテレビ中継放送が有りました。    
 一九六八年にはマルティン・ルーサー・キング牧師が暗殺されました。日本でも大きく報じられました。牧師が長年続けてきた公民権運動に対して、ジョンソン大統領は公民権(人権)法を制定させ、法律上の人種差別を無効とします。
 ニクソン大統領は、日本でも大々的に報道されたウォーター・ゲート事件により任期途中で辞任。ベトナム戦争終了は合衆国の支援した南ベトナムへの北ベトナム軍侵攻によって終わります。合衆国にとってひとつの区切りになったと思いますが、その教訓は生かされませんでした。莫大な資金を投入したベトナム戦争では大きな成果は得られず、国内では反戦運動、政治不信、対外的にはソ連との戦略兵器削減交渉(SALT)によって米ソ共に軍備制限を行う交渉は行いましたが、戦争放棄を話し合うことはありませんでした。合衆国の財政は慢性的な赤字傾向を続けていくことになります。欧州においても大戦後の軍備について社会主義圏のワルシャワ条約機構と自由主義圏のNATOの軍備の均衡が図られました。これらの軍備の均衡(デタント)は八九年のベルリンの壁崩壊まで続きます。続く

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