一九八三年、本格的に海外添乗が始まりました。日本経済、バブルの真っ只中です。海外旅行者数も年々増え続け、添乗は年間二百日以上を数える年が続きました。仕事も有り、気分も高揚している時にはなかなか先の事は見えないようです。単に景気に乗せられて仕事をしていた感じがします。そのような浮かれた時代の添乗の様子です。
一九七二年、日中国交正常化そして七八年平和友好条約締結後、日本からの人、物の中国への流れが活発になって旅行者も増えていました。お客様の中には日中戦争中、大陸で過ごして戦後初めての里帰りのような思いの方もいて好評でしたが、中華人民共和国への添乗は、行くたびに現地ガイドと言い争いになる事が多くて大変でした。何故なら、彼らの仕事に対する考え方、遣り方が理解できず、こちらの事情を説明して彼らにも理解してもらえなかったのです。仕事に対する考え方が違いました。受け入れも国営旅行会社が一社だけです。競争も無く、総てが役所仕事のような遣り方ですからサービスも通り一遍になります。現地に着くまでホテルも判らない、翌日の日程を聞いても当日には平気で変更になっていたりと、仕事以前の問題で現地ガイドとよく口論になりました。
八十三年頃、中華人民共和国にもオリエントエクスプレスといわれる列車が有りました。その列車で、日本から三百名ほどの旅行者と一緒に中国周遊のツアーの添乗をした際、最終地の上海駅に到着すると三百名が乗車する迎えのバスが一台見当たりません。同行の中国人ガイドも事情が判らない。責任者に状況を調べるように言っても「待ってくれ」の一点張りで埒が明かない。現地ガイドもガイドとして業務を依頼されているので責任範囲外ということです。「お客様」という概念がない頃でした。その時、ちょっとした言葉の行き違いで現地ガイドと口論になりました。北京大学の医学部を出て医者になれる二十歳代後半の男性でしたが、医者として空きが無く致し方なくガイドを遣っていました。そんな彼の発した一言には驚きました。「戦争中の日本人は大陸で何をしたんだ!これぐらいの事、我慢しろ!」と。戦後生まれの彼にも戦中の日本人の様子が親の代から引き継がれていました。
平和友好条約締結後、日本からたくさんの様々な規模の企業が進出しています。直後に進出した中小企業の経営者には途中撤退した企業の方もいました。もう、中国はこりごりとの事。中国人との共同事業でしか事業が起こせない状況で日本側からの資本、技術が投下され、ある段階になると後は中国側だけで事業が行われたようです。中国側にするとごく当たり前の行為なのかもしれませんが・・・。
中国人になりきらないと付き合うには難しい国です。続く。
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